遊廓の藝娼妓が発展させた明治の長岡花火
長岡花火は、慰霊・復興・平和への願いが込められているとありますが ──
それ戦後の話!
長岡花火大会の歴史はもっと古く、明治十二年からはじまっています。(出典:長岡の歴史 第5巻 第二節 花火)
長岡花火大会のはじまりは長岡遊廓🌾を繁榮させるための花火で、当時の長岡花火大会は長岡遊廓の藝娼妓が主役!
長岡遊廓の藝娼妓がスポンサーになって打ち揚げられて、明治四十二年まで三十年間も長岡花火を支え、長岡遊廓のみならず長岡市を繁榮させました。
最初は味気のなかった花火も藝娼妓たちが大喜びするようなキレイな花火を見せたくて花火師たちの技術もアップデートしていきました。
長岡の一大名物になるまで繁栄したのは長岡遊廓の藝娼妓のおかげなのです。
公式記録では語られない長岡花火の歴史のはじまりと知られざるルーツをご案内します。
八幡神社の祭礼
長岡花火の起源とされるのが1879(明治12)年9月14・15日両日に八幡神社(長岡千手町)の祭礼で打揚げられた花火。
八幡社の祭礼では千手横町、山田町、長原の貸座敷47名が釀金し七寸・五寸、四寸の350発の花火が打ち上げられて見物の群集はおびただしく、近年稀なる祭典と記録されています。
この千手八幡様のお祭りは現在も八幡神社秋季大祭として9月の同じ時期に開催されています。
(出典:長岡の歴史 第5巻 花火大会)
長岡遊廓の煙火大会のはじまり
長岡市史によると長生橋西字柳島での煙火打揚の始まりは1880(明治13)年とされます。
片貝の富豪、佐藤佐平治と長原遊廓の大島屋のつる🌾をはじめとした藝娼妓が中心となって長岡花火を準備したとあります。
現在と同じ長生橋下で打ち揚げられた最初の長岡花火大会とも言えます。
長生橋下に於ける煙火打揚の最初は、明治十三年九月であつた。
長原遊廓大島屋のつるという藝妓と仲間が片貝の富豪、佐藤佐平治に誘われて、片貝花火を見物したところめちゃ感激しました。
片貝花火は長岡花火より歴史が古く、技術力が高く、明治11年には2尺玉を打ち上げています。
片貝花火も武芸中の火術、『合圖』からアップデートされた花火で、片貝村の器用な者が色々と工夫を重ねて製造した煙火を村社の祭禮に打ち上げたのが起源。
片貝花火をキラッキラな目で観ていた藝妓たちに気をよくした富豪、佐藤佐平治さんは数日後に、再び大島屋に現れて大勢の藝妓を集めて、
片貝のみたいな煙火を打揚げて、長岡の街も盛り上がってみる氣はない?
その氣があるなら寄附してもっとがんばっちゃうよ!
と話したところ、大勢の藝妓はノリノリ。
コミュ力が高い藝妓たちは、瞬く間に話をまとめて凖備開始!
4つのルールを決めて、長岡花火の打ち上げを企画しました。
長岡遊廓の煙火大会 4つのルール
- ✅ 主催者は遊廓全体
- ✅ 九月遊廓の鎭守の秋祭に献納する
- ✅ 塲所は長生橋下柳島で打揚げる
- ✅ 馴染客へ見返り無しで寄附して貰う。
順調な準備に盛り上がっている長岡花火の話に佐藤佐平治はめちゃ喜んで、責任者として花火を製造している片貝村の若者に片貝煙火の技術で
長岡市民をアツっといわせちゃお!
と、多額の私財を投じて、メイドイン片貝のスペシャルな数十発の花火を寄付しました。
いよいよ九月十四日。約200発余りの花火が寄付で集まりました。
明方密雲の閉した天気は、漸次拭くが如く晴れ上り、總てが豫定の通り進行して、大盛況裡に其の第一回打場を終つた。
(明け方は雲に覆われた天気でしたが、次第に晴れ上がり、予定通りに進行して、大盛況のうちに第一回の打ち上げを終えました。)
(引用:長岡市 編『長岡市史』)
これが長生橋下で打ち揚げられた最初の長岡花火大会です。
この後、長岡遊廓の藝娼妓が主体となって発展した長岡花火は明治12年から明治42年まで30年間も続きました。
長岡遊廓の年中行事
大正時代に出版された永田直治郎 著『長岡花街誌』によると長岡花火は長岡遊廓の年中行事として述べられています。
長岡花街誌には、長岡遊廓で一年中最も賑わう晩が長岡花火と記載されています。
当初は遊廓の繁栄を祈願して打ち揚げていた花火でしたが、規模が段々と大きくなり長岡市も繁栄していきました。
長岡遊廓と長岡市で合同した長岡花火は一大名物となり遊廓と長岡市の繁榮として盛大に行われました。
九月十四五両日
この両夜は遊廓では一年中最も賑わう晩である。例の花火を打ち揚げて大いに景気をつけるのだ。
元来、この花火は遊廓の楼主等がお客を引き寄せる為だったのがそれが段々に大きくなって今では市の方でも大へん肩を持つことになった様な訳である、つまり遊廓の連中と市の方とで合同して、市は市の繁栄策、遊廓は遊廓の繁栄策を講ずる手段の一つとして盛大にやることになったのであるらしい。
出典:長岡花街誌(永田直治郎 著)
明治の煙火目録
明治時代の長岡花火を遊廓の藝娼婦が主体となって発展していったことを示す記録が煙火目録i🌾です。
煙火目録には、唐津屋、波多屋、蔦屋、山彦、桝屋、三國屋といった貸座敷の屋号とやい、千代、ふみ、くにといって藝娼婦たちの源氏名が並んでいて、明治の長岡花火は遊廓の多くの藝娼婦たちの協賛で打ち上げられていたことがわかります。

出典:長岡大煙火 明治44年
長岡は1945(昭和20)年の長岡空襲によって、市街地の8割が焼け野原になったことで戦前の資料が少なく貴重です。
長岡花火ドットコムでは以下の煙火目録を紹介しています。
煙火は花柳界から煙火恊會へ
長岡遊廓のイベントとして明治十二年から続いた長岡花火。
長岡の花火として一大名物となったのにいつまでも遊廓が主導しているのが気に入らない長岡市は、市全体の催しとして打揚げるべきであると、北越·越佐兩新聞社と商業會議所とが主唱者となって明治四十三年に長岡市煙火恊會を組織しました。
これにより、長岡遊廓の藝娼妓がスポンサーをしてくれて明治四十二年まで三十年間も賑わせてくれた明治時代の長岡花火は此の時を以て、花柳界の手を離れました。
明治四十三年からは長岡市煙火恊會が長岡花火の一切を仕切ることなりました。(出典:長岡市史)
明治時代からはじまった長岡花火大会ですが公式では遊廓の貢献を語ることがないため、一大名物にしたのは長岡遊廓の藝娼妓たちだったことは知られていません。
長岡花火が日本三大花火大会と言われるほど、名物になったのは三十年の長い間、協賛スポンサーをしてくれた長岡遊廓の藝娼妓たちのおかげといっても過言ではありません。

出典:長岡花街誌(永田直治郎 著 面白社)
長岡花火を支えた長岡遊廓
明治時代の長岡花街。
長岡の花火大会を一大名物となるほど繁榮させた長岡遊廓の藝娼妓たちについて語られることはなく、長岡遊廓の存在はほとんど知られていません。
長岡に存在していた長岡遊廓🌾を知ることができるガイドブックが「長岡花街誌🌾」。
長岡花火大会の歴史の始まりを築いた藝娼妓たちを知ることができる長岡花街誌を解読しました。
取説
長岡遊廓の藝娼妓「長岡花街誌」
長岡花火のまるごと歴史年表
新潟県長岡市で毎年、8月2日・3日に開催される「長岡まつり大花火大会」
長岡花火の歴史や起源は、長岡花火公式サイトなどの解説で知ることができます。
ところが!
一見、長岡花火の歴史が凝縮されているようですが、花火財団になってから公式記録から消えてしまった歴史も数多くあるんです。
長岡花火ドットコムでは明治時代の書物などから長岡花火の歴史を独自調査。公式に掲載されていない長岡花火の歴史と伝統を徹底紹介します。
アーカイブ情報を駆使して長岡花火の歴史の情報を深掘りしています。
取説
長岡花火の歴史年表
出典:長岡花火の歴史
長岡花火の歴史は明治時代の古い文献になどにも詳しく記載されています。
長岡市図書館に所蔵されている文献、国立国会図書館デジタルコレクション(公式)で閲覧できる資料を参考にしています。
国立国会図書館デジタルコレクションでは長岡花火に関連した情報をキーワードで検索することができて、保護期間満了しているコンテンツは無料でテキスト検索やダウンロードできます。
国立国会図書館デジタルコレクション
- 📕 長岡市 編『長岡市史』,長岡市,昭和6. NDLデジタル
- 📕 永田直治郎 著『長岡花街誌』,面白社,大正1. NDLデジタル