長岡花火の繁栄と長岡遊廓の歴史|花火×花街
長岡の花火大会がはじまったのが明治時代。
最近では慰霊と復興を強調するあまり、長岡市民でも長岡空襲の慰霊からはじまったと思い違いをしているひとが多くなってしまいましたが、長岡の花火大会の起源とされるのが千手町八幡様のお祭りで遊廓関係者が打ち上げた花火です。
明治の長岡花火は花柳界のイベントとして始まり、
花火大会は、長岡遊廓の芸娼妓たちが、客をもてなし、賑わいを演出した年中行事でした。
その後、明治43年まで花柳界が長岡の魅力発信を担い、花火を通じて長岡が発展するための役割を果たしていました。
それなのに長岡花火公式サイトの歴史年表で語られているのは──
長岡で初の花火大会『長岡の花火大会の起源』
9月14日・15日千手町八幡様のお祭りで、遊郭関係者が資金を供出しあい、350発の花火を打ち上げる。
引用:歴史年表(長岡花火 公式ウェブサイト)
たったこれだけです。
「遊廓と長岡花火の歴史」というタブー視されがちな歴史であるため、長岡花火大会の起源であるにも関わらず、長岡花火公式、長岡市行政のサイトでは語られていません。
長岡における花街は単なる風俗産業ではなく、長岡花火大会の礎を築きあげたといっても過言ではありません。
ところが歴史的資料も少なく、長岡遊廓の芸娼妓たちのおかげで長岡花火が発展したこと、そもそも長岡に遊廓が存在していたことを知らない人も少なくありません。
長岡花火を支えた、遊廓の歴史の事実がまるで無かったかのよう…。
長岡花火で感動したい人は「長岡空襲で亡くなった人々への慰霊の花火」のストーリーだけ届ければいいけど、せめて長岡市民には「花火✖️花街の歴史」を知ってほしい。
そこで明治初期から約40年の間、長岡花火を協賛し、繁榮させた立役者である長岡遊廓の藝娼妓たちの歴史をネットに刻みます。
花火×花街、長岡花火と遊廓の藝娼妓
長岡の花火大会の起源とされるのが明治12年に千手町八幡様のお祭りで打ち上げられた花火。
明治時代の煙火目録をみると貸座敷の藝娼妓の源氏名がずらりと並び、遊廓関係者の醵金で打ち上げられていたとがわかります。
当時の新潟新聞によると─
長岡・千手町の八幡神社では、毎年8月14日・15日に例祭が行われている。今年は同じ千手横町・山田町・長原の貸座敷の関係者47名が醵金(お金を出し合うこと)し、花火を打ち上げた。大きなものは七寸五分玉、小さなものは四寸玉で、合計350発が打ち上げられた。見物の群衆は非常に多く、近年まれにみる盛大な祭礼となったという。しかも花火の名称も新しく工夫されたものが多かったので、その面白さをわざわざ記録して報道する。
出典:明治12年9月10日付『新潟新聞』より
長岡花火、始まりの花火名称
明治の新潟新聞がわざわざ掲載した「面白い花火の名称」をご案内します。
- 堤の提灯
- 長原通ひ
- 検梅院の黒札
- 放蕩息子
- 狐に松茸
- 長生橋の螢
- 芸娼妓の空涙
- 接摩の目覚歯
- 染の餅
- 水場の手拭
- 身受の蕎麦
- 酔覚の素麺
当時の花火スポンサーである長岡遊郭に関連した、長原(長原遊郭)や検梅院、芸娼妓といった用語が花火名称がつけられているのが興味深いです。
長生橋下で最初の長岡花火大会
現在の長岡花火と同じように信濃川の河川敷で打ち上げが始まったのは翌年の明治13年。
長原遊廓の大島屋のつる🌾さんを中心とした藝娼妓たちによって長生橋下で花火大会がはじまったとされます。
(出典:煙火の起源 長岡市史(長岡市 編))
以降、明治時代の長岡花火大会は遊郭が中心となって長岡遊廓を繁榮させるための年中行事として開催されたイベントになりました。
取説
長岡遊廓の年中行事
煙火目録と遊廓の藝娼妓
長岡市史に書かれている「煙火の起源」にある花火✖️花街の関係を示す資料が明治時代の煙火目録。
長岡花火ドットコムが収集した長岡花火の明治時代の煙火目録には、長岡遊廓の藝娼妓たちが協賛していたことが記載されています。
長岡花火大会が開催されてまもない明治16年の煙火目録で注目したいのが、大きく記名されている「大仕掛 野分ノ薄九尾の亂走 大島屋つる」
長生橋下で花火大会をはじめた藝娼妓の中心的な人物である大島屋つるさんの打ち上げ花火です。
「秋の暴風に吹かれるススキの野を、九尾の狐が乱れて走り回る情景」の大仕掛けはどのようなものだったのでしょう。

煙火目録 明治十六年(写)所蔵:長岡市立図書館
長原遊廓の大島屋つる
明治13年の長生橋下ではじめての花火大会を打ち上げに尽力したのが藝娼妓が長原遊廓の大島屋つるさん(出典:煙火の起源 長岡市史(長岡市 編))
長原遊廓の大島屋つるは、北越美人春曙花競にも登場する藝妓でのちに料理店『若滿都』の女将、西山つるとなります。

出典:『北越美人春曙花競』田村藤吉編
明治後期の煙火目録に刻まれた「花火×花街」のつながり
花柳界の手を離れて長岡煙火恊會が運営するようになった明治後期の長岡花火ですが、煙火目録に多くの長岡遊廓の藝娼妓たちが醵金していたことが記録されています。
明治44年の煙火目録には、大仕掛のスポンサーは「唐津屋、波多屋、蔦屋、山彦、桝屋、三國屋」といった貸座敷の屋号に、「やい、千代、ふみ、くに」といった藝娼妓たちの源氏名が記してあります。
明治の長岡花火はまさに花火×花街の深い繋がりが歴史資料と言える煙火目録から知ることができます。
長岡花火の歴史の中で知られざることですが、明治時代の長岡花火大会は、長岡遊廓の藝娼妓たちが支えていたことは紛れもない事実です。

出典:長岡大煙火 明治44年
取説
長岡遊廓の藝娼妓が寄付した明治の長岡花火
長岡遊廓の起源
1616年の堀直竒が長岡に入封の際に、城下外れの千手村に18軒の茶屋を許したのが花街の起こりとされます。
寛政年間(1789〜1801年)には、妓楼は38軒まで増えて、1846年頃になると花街は北にもできて、北と南に花街を持つようになったとされます。
長岡花街を知ることができる唯一のガイドブック『長岡花街誌』(永田直治郎 著)から長岡遊廓の起源を探ります。
北廓の花街|石内遊廓
石内で娯楽寺領(長岡藩外の寺社領)。
内川の各河戸を近くにひかえ、明治以降は川汽船の発着地が蔵王であることや東山油田に近く作業員が遊びに来るなどで急成長したところで最盛期には妓楼も十五軒あったという。
客筋は賭博公認地域であり長岡藩外であることから武士、油田関係者など盛場に通うものが多かったとされます。
明治11年の『長岡みやけ』によると16軒の貸座敷があり、判読できる貸座敷は……。(出典:長岡みやけ 長岡市立図書館所蔵)
石内遊廓
大杉屋・上桝や・米や・高砂や・ふじや・肴屋・中村屋・春屋・白木や
南廓の花街|千手横丁・山田遊廓・長原遊廓
千手村の花街は千手横丁・山田町・長原町へと拡大していき、明治40年頃の南の花街では妓楼が千手横丁に17軒、山田町に10軒、長原町に20軒各々軒を並べていました。
千手横丁・山田町・長原町は、千手村や草生津村の館内にあり、信濃川の草生津渡しがあるところで信州街道と三国街道が結びつく交通の要所でした。
街道沿いであったことから客筋は商人、旅人が多かったとされます。
明治11年の『長岡みやけ』の貸座敷の部で判読できる貸座敷は……。(出典:長岡みやけ 長岡市立図書館所蔵)
千手横丁
植田屋・一力・小杉屋・はまや・かどや・松尾・山田
山田町
石田屋・大島屋・竹屋・益田屋・からつや・小島屋・和泉屋
長原町
加賀屋・中川屋・柏屋・栗屋・小須栗・きくや・今井や・大阪栗や
『長岡みやけ』明治11年
明治時代に発行されていた長岡の市政要覧とも言える『長岡みやけ』
長岡みやけの中にある『貸座敷の部』には、当時の妓楼の名前と楼主、芸娼妓が記載されています。
長岡みやけによると、千手横丁21軒、山田町11軒、長原町14軒、石内16軒の合計62軒の貸座敷があり存在していたことがわかります。
長岡遊廓を知ることができる唯一のガイドブック『長岡花街誌』によると、
彼の南北兩廓時代に長原二十軒、横町十七軒、山田十軒、うれに北廓の石內が十五軒、都合六十二軒に比較すると、うの數に於て十軒少たいのであるが、総ての點に於て今はさすがに遊廓らしくなつて來た、
引用:長岡花街誌
とあります。
『長岡みやけ』と見比べると貸座敷の合計数は一致していますが遊廓の軒数はまちまち。
信濃川で打ち上げた第1回長岡花火大会に尽力した貸座敷、大島屋は山田町に名前があります。南北兩廓の時代は、それぞれの遊廓同士の引越が多かったのかもしれません。

出典:明治11年 長岡みやけ,長岡市立図書館所蔵
文治町の花街|長岡新遊廓
長岡市が施行されると、ひとつの市に北廓と南廓の二箇所も花街があることが問題となり遊廓を統合することになりました。
明治39年から新保石五郎が工事に取り掛かり草生津村の一部を区画整理して作られた一万五千坪の面積の敷地に文治町と称した花街が誕生しました。
置屋や料理屋に転業したり、廃業した貸座敷も多く、当時の統計をみると、移転前は59軒あった貸座敷が19軒となり、娼妓數も111人から19人まで減少したことがわかります。

出典:長岡花街誌
1907(明治40)年4月8日に竣工した初めこそ、貸座敷が少なかった長岡新遊廓ですが、徐々に盛況していきます。
花柳界から長岡大煙火協会に、主催が変わったあとの明治44年の長岡花火番附表でも、大花火の協賛スポンサーには長岡新遊廓の貸座敷と藝娼妓の源氏名が並んでいることがわかります。

長岡市煙火(明治44年) 抜粋
長岡遊廓はどこにあった?
長岡遊廓の場所は、長岡市史(長岡市 編)の附錄「長岡市地図」によって存在を確認できます。
地図から長生橋の袂に、南廓(千手横丁・山田町・長原町🌾)があった千手横丁、山田町、長原町と文治町の名称があります。
長岡新遊廓(文治町)があった場所には「遊廓」の文字もあります。
長岡新遊廓の入口とも言える霞橋も記載されています。

長岡遊廓(千手横丁・山田町・長原町・文治町)
🌾:長原町は町名変更により山田町になりました。(35年9月)
(出典:山田町一丁目町内史, 長岡市立図書館)
北廓(石内)の地図
北廓の花街があった石内。
石内遊廓は現在の娯楽寺(長岡市石内2丁目5-38)付近にあったと想像できます。

出典:『長岡市史』長岡市 編 1987年
出典:『長岡市史』長岡市 編,国書刊行会,1987. NDLデジタル
北廓と南廓をまとめた花街|長岡新遊廓
新保石五郎は、長岡新遊廓の町割を吉原遊廓を参考にしたと言われています。
霞橋を渡った先の入口には「長岡新遊廊」と掘り込んだ石の門柱が建っていました。
その大門を通って直線の町を一等地といい東仲の町があり、十字路の先の西側に一直線の町を西伸の町という。
十字路の右の通りを久松小路、左を助六小路と呼びます。
大門を入って左に曲がればその通りは力弥小路、突き当たって右を二等地の大通り梅川町である。
そこを西に進むと四つ角があり、その先の通りを高尾町。
大門を入った右の通りを初花小路、初花小路をはずれる所を左に曲がれば夕霧町となる。
遊客の情緒がある通り名がつけられていました。

長岡遊廓妓楼配置図 大正元年8月1日現在
長岡遊廓の年中行事
大正時代に出版された永田直治郎 著『長岡花街誌』によると長岡花火は長岡遊廓の年中行事として述べられています。
長岡花街誌には、長岡遊廓で一年中最も賑わう晩が長岡花火と記載されています。
当初は遊廓の繁栄を祈願して打ち揚げていた花火でしたが、規模が段々と大きくなり長岡市も繁栄していきました。
長岡遊廓と長岡市で合同した長岡花火は一大名物となり遊廓と長岡市の繁榮として盛大に行われました。
九月十四五両日
この両夜は遊廓では一年中最も賑わう晩である。例の花火を打ち揚げて大いに景気をつけるのだ。
元来、この花火は遊廓の楼主等がお客を引き寄せる為だったのがそれが段々に大きくなって今では市の方でも大へん肩を持つことになった様な訳である、つまり遊廓の連中と市の方とで合同して、市は市の繁栄策、遊廓は遊廓の繁栄策を講ずる手段の一つとして盛大にやることになったのであるらしい。
出典:長岡花街誌(永田直治郎 著)
明治の長岡花火は、遊廓の賑わいと、長岡市の発展を願った花火でした。
長岡花火公式サイトや長岡市では語られませんが花火✖️花街が長岡花火を発展させた歴史は事実です。
長岡遊廓の消えた花街
その後、煙火目録から藝娼妓の源氏名は消え、花火 × 花街の歴史は終わりました。
昭和初期の煙火目録には、藝娼妓に変わって個人商店などの名前が並び、市民が主体となった長岡花火になりました。
長岡遊廓の絶頂は、娼妓が大正初期、芸妓が昭和初期で衰退していきました。
その後、戦時下になると藝娼妓も徴用工として登用され、さらに昭和22年の長岡空襲で長岡遊廓も焼け野原となりました。
戦後も細々と5軒ほどに増えていった花街でしたが昭和33年に全施行された売春防止法によって、160年の歴史のあった長岡遊廓の灯は完全に消えました。
出典:長岡の色町 長岡郷土史
出典
長岡花街誌
『長岡花街誌』は、大正元年に発行された、長岡遊廓のガイドブック。
花街の年中行事、貸座敷、藝娼妓、花街の迷信など、長岡花街に関する詳細な情報が記載されている長岡遊廓を今に伝える唯一の書籍です。
出典:永田直治郎 著『長岡花街誌』,面白社,大正1. NDLデジタル
明治の難解な文章でか書かれた『長岡花街誌』を AI で解読!藝妓や娼妓、貸座敷など長岡遊廓について解説しています。
取説
長岡花火の繁栄を築いた長岡遊廓の藝娼妓
青楼美人合姿鏡
タイトル画像は吉原遊廓の遊女たちを描いた錦絵本『青楼美人合姿鏡』から引用しています。
一番右の遊女が大河ドラマ『べらぼう』で小芝風花さんが演じる瀬川です。
出典:北尾重政(1世),勝川春章/画『青楼美人合姿鏡 春夏』,1776 序刊
NDLデジタル:『青楼美人合姿鏡 春夏』