長岡花火の繁栄を築いた長岡遊廓の藝娼妓|『長岡花街誌』から読み解く遊廓の歴史
長岡に存在していた長岡遊廓🌾を解説しているガイドブックが「長岡花街誌」
長岡花火の公式サイトでは長岡花火の歴史上で長岡遊廓の存在をちょっとだけ語っています。
9月14日・15日千手町八幡様のお祭りで、遊郭関係者が資金を供出しあい、350発の花火を打ち上げる。
引用:長岡花火公式サイト 歴史年表より
え?コレだけ!?
長岡遊廓は、記念すべき第1回の長岡花火の打ち上げに尽力してくれた存在なのにやけにあっさりすぎる説明。
長岡遊廓の関係者が明治四十二年までの三十年の間、長岡花火に寄付をしたことで花火がアップデートされて長岡の一大名物になるほど繁榮したのは誰のおかげ?
紛れもなく長岡遊廓の藝娼妓たち!
地味だった明治の花火がカラフルで色鮮やかで派手な花火になったのはスポンサーの藝娼妓たちを喜ばせようと花火師が技術をアップデートしていったからに他なりません。
そんな長岡遊廓の藝娼妓たちの情報を検索しても歴史に無かったかのように見つかない。
そりゃねーぜ!
今では長岡まつりは「慰霊・復興・平和への願い」と謳われていますが、元々は明治のパーティーピーポー(長岡遊廓の藝娼妓)がド派手に繁榮してくれた長岡花火の歴史を知ってほしい。
長岡花火を繁榮させた立役者である長岡遊廓の藝娼妓たちの歴史をネットに刻みます。
長岡花街誌を解読した方法
唯一、見つけた長岡遊廓を解説したガイドブックが「長岡花街誌」です。
長岡花街誌は大正時代に発行されたもので貸座敷や藝娼妓のことが事細かく記載されています。
国立国会図書館デジタルコレクション(以下、NDLデジタル)でアーカイブされていました。
ページをめくると…
古昔役者の稱、杯盤の間を斡旋し又絃歌舞踏して酒興を助くるを業とする女、一に藝妓といひ、京坂地方にては藝子ともいふ、又小妓を半玉といふに對して一本とも云ふ、
え?全然、読めねーーー!!
大正時代の書なのでほぼ意味がわかりません。
そこでAIの力で解読しました。
タイトル画像の藝妓さんも AI に描いてもらいました。
長岡花街誌 永田直治郎著
花火の街 長岡の始まりは明治時代。
遊廓の年中行事だった花火大会を長岡の一大名物となるほど繁榮させてくれたのは長岡遊廓の藝娼妓たちの寄付のおかげでなのです。
現在は長岡花火の発展に尽力してくれた長岡遊廓の藝娼妓たちの存在は知られていません。そんな長岡花火の歴史の最初を築いた藝娼妓たちを長岡花街誌🌾からご案内。
漢字は当時の雰囲気のまま旧字にしています。
長岡遊廓の起原
長岡遊廓の起原は、元和二年に堀家が入部したとき、城下町から離れた千手村(今の千手町)というところに十八軒の茶屋を許可したのが始まりです。
その後、だんだん繁盛して寛政のころには三十八軒になりました。 千手村は小千谷街道の宿場であり、柏崎へ通じる国道の交差点だったことで早くからこのような茶屋業が起こったのだと思われます。
当時の茶屋の様子は、入口にわらむしろ二枚を下げて暖簾代わりにし、一軒に一人の女性を置いていました。
客が来ても他の家へ招かれても泊まることはできませんでした。また、同業者の中に頭取というものがいて、遊女の契約書に署名押印するのはもちろん、すべての指揮をしていました。
領主の役人が遊女が密かに住んでいないか厳しい検査をしていました。
大抵の家では大きな長持ち(底板なし)を用意しておき、役人が来たときは遊女をその長持ちの中に隠していました。これを人長持ちと呼んでいました。
遊女を指して、彼は何者かと聞かれるたびに、あれはうちのヲパ(=女郎)だと答えたと古い書物にあります。
貸座敷
貸座敷というと、ただ座敷だけを貸せる家のように思われますが、昔から娼館、妓楼、靑楼、女郎屋、揚屋などを称していました。
貸座敷とは、お世辞にもいい名前とは言えませんが、娼妓が出稼ぎして色々な家のある部屋で商賣するから、体裁のいい名前を付けて貸座敷と呼んだのではないでしょうか。
営業の時間に制限があるかというと、日夜何の変わりもなく、お客がいればいつでもいいです。 ただ、午前二時過ぎには、いわゆる大引きというので、各戸寝に就くまでのことです。彼らの社會は、どんな日常生活をしているのでしょうか。そは極めて放縦なものです。
事務所ができてから、芸妓は十二時を過ぎると、その事務所に泊まりに行くようになってはいますが、それでも決して厳格に実行されているのではありません。
朝の起床はだいたい七時から八時までの間で、起きるとすぐに家中の掃除をします。それが済むと朝食を食べます。そして、裁縫の稽古に事務所へ行きます。 それは十時頃のことでしょう。
二時頃までは事務所にいてもいいのですが、そこまで熱心に稽古しているものはほとんどいないということです。 まず家に帰って昼食を食べます。それが一時過ぎでしょう。それから四時頃まで昼寝をします。昼寝から起きると風呂に入って化粧します。 そうして準備もできたら、夕食も済ませます。
六時頃から素見客が来ます。時間が経つと共に九時十時頃まではますますにぎわいます。十二時を過ぎると素客はやや少なくなります。
しかし、安値で泊まろうとして、わざと遅くまでぶらついているものもいるということです。とにかく午前二時には戸を閉めます。
それから、客の有無にかかわらず、娼妓たちは飯を食べて床に入ります。普通の民家では眠りの最中なのに、彼らは一生懸命になってお客を探しているのです。
藝者とは
昔から酌や芸能で酒席を仲介し盛り上げるのを仕事とする女性を藝妓と呼んでいました。
京阪地方では藝子とも言い、小藝者を半玉と言うのに対して、一本とも言います。それに自前、分、七三、丸抱などがあります。
自前は独立して仕事をする者を言い、分以下は主人の芸者です。
分は衣服調度を自分で用意し、 その収入は主人と折半するものを言います。
七三は座敷着だけを自分で用意し、その収入は七三の割合で分ける者を言います。
丸抱は一名年季とも言い、期限を定めて抱える者を言います。
一切の費用は主人の負担とし、その収入はすべて主人に入るものです。 その収入を玉代と言い、もとは線香で玉数を計り、一本何程と値を定めたものですが、 今日では時間で計り、やはり一本何程と言います。このほかに祝儀として包頭を受けます。
その宴席に出ると三味線の紐を解き、 調子を三下りに合わせ、長唄の中で季節に関係するめでたい一曲を歌います。これを御座付(おざつき)と言います。
次に三下りの端物に移り、次に本調子で都々逸(どどいつ)を客の興味が尽きるまで歌う。
二上りに戻して甚句を歌い、一座の興味がなくなって客が帰ろうとするとき、千秋楽のお祝いと言って長歌の老松の最後、種蒔三番や清本の梅の春の最後の北洲などの中から一曲を歌い三味線を弾いて納めるが一種の儀式になっています。
取説
長岡新遊廓にあった三十二軒の貸座敷と藝娼妓、花街の迷信をご案内しています。
長岡新遊廓の貸座敷と藝娼妓
娼妓とは
娼妓は名前は違っていたけれども昔からいて、平安時代には宇加禮女(うかれめ)と言っていました。
万葉集には遊行女婦と書いてあって、和名抄には遊行女児と書いてあるのも娼妓の仲間だった。
鎌倉時代以降になると阿曾比、遊女、遊君と言われました。
それに奈良時代 からは都や国にたくさんいるようになったけれども、それらはみんな船に泊まる津にいたのだ。 宇加禮女という名前は船で行き来して客を誘って、阿曾比という名前は歌や踊りをして酒席の楽しみを盛り上げたものだった。
遊廓の年中行事
長岡遊廓の年中行事をご案内します。(出典:永田直治郎 著『長岡花街誌』NDLデジタル)
正月元日
いわゆるシケ日というのは、どこの家も年始の挨拶回りに忙しい日のことである。
遊廓でもとても忙しく、特に遊びに来る客が、気の利いたことをして来るわ来るわである。それにみんなに挨拶しなければならないから娼妓の方も大変忙しいのである。
芸妓などは特に普段、晶翼になっている料理屋に年始に行かなければならないので、この日はもう忙しいというほどのことである。
正月二日
新年の始まりだ、新年の始まりだ。藝妓は朝早くから起きて、ピンチャン(鳴り物)を鳴らす。
娼妓の大先生は金切り声で歌を歌うが藝がないので藝妓には及びません。
客のところへ、理解できない年始の挨拶でも出すくらいが関の山。
夜はすぐにお娼宝(娼妓)が来て、祝儀でももらって喜ぶだろう。客は次々とやって来る。
正月八日
廓内の樓主連が新年宴會を開催します。
いうまでもなく飲めや謳うの大騷き、商實抦、いろいろいろの藝当ができる連中なので大變賑かな新年會になるそうな。
四月八日
遊廓が移転し、開業式が行われた日。それを永久に記念するため、樓主たちは集まって記念の宴會を開きます。いつものように賑やかな騒ぎです。
五月六七兩日
公園にある地藏樣の祭禮が行われます。
祭りには特別な賑わいはないけど、いつもより遊廓内の人気や観光客が多く、時には花火が打ち上げられることもあります。
九月十四五兩日
この兩夜は遊廓では一年中最も賑やかな夜。例の花火を打揚げて大いに盛り上がります。
元々、この花火は遊廓の樓主等がお客を引寄せる爲に行われていましたが、段々と大きくなり今では市の方でも注目されるようになりました。
遊廓の人々と市の人々が合同で、市の繁榮と遊廓の繁榮するの活性化策の一環として大々的に行われることになったようだ。
🌾:明治の長岡花火は9月14日・15日に開催してました。
十二月三十一日
大晦日の夜だけあって、樓主も藝娼妓も關係なし!
藝娼妓ともに飲んで、歌を歌い、管を吹く。完全な無禮講で大いに盛り上がります。
普段、親しくしている隣り近所の商賣仲間も同様に参加して、あつちもこっちも皆が楽しみます。
この夜は彼らにとって大いに遊び楽しむ、一年の中で本当の意味でリフレッシュする一晩なのでしょう。
市内料理屋調
当時の長岡市にあった料理屋の數は大小百餘軒あつて、いづれもその店相當の特色がありましたが、とにかく長岡で大料理屋と称される多數客の宴會を開けるのは、長岡舘、常盤樓、若滿都、三芳樓などである。
長岡花街誌の市内料理屋調
長岡花街誌で案内されている市内料理屋調で所在する町名と屋號をまとめました。(出典:永田直治郎 著『長岡花街誌』NDLデジタル)
阪之上町の料理屋
常盤樓、若滿都、靑陽軒、千歳屋、綠亭

出典:坪井政太郎 編『絵画北越商工便覧』

出典:坪井政太郎 編『絵画北越商工便覧』
本町一丁目の料理屋
高久、角新、角彌、魚吉

出典:坪井政太郎 編『絵画北越商工便覧』
表一の料理屋
木山屋、魚榮
中橫町
魚與
渡里町の料理屋
魚藤、魚仁、末廣、新川亭、肉店

出典:坪井政太郎 編『絵画北越商工便覧』
中島の料理屋
長岡舘

出典:坪井政太郎 編『絵画北越商工便覧』
上田町の料理屋
魚作、靑木樓、龜山

出典:坪井政太郎 編『絵画北越商工便覧』
千手町の料理屋
池田屋、江戸、金澤屋

出典:坪井政太郎 編『絵画北越商工便覧』
横町の料理屋
魚長、魚德、滿壽屋、䀋屋、加藤、宮川屋
山田町の料理屋
小島屋、魚庄、石田屋
草生津町の料理屋
松壽軒
四千手町
湖月
文治の料理屋
日榮亭、松月、萬安、すし龜、大店屋、加藤月、萬安、すし龜、大和、駒の屋、榮亭、豐島屋、稻荷屋、屋、滿洲屋、魚末亭、大村、春雨

出典:坪井政太郎 編『絵画北越商工便覧』

出典:坪井政太郎 編『絵画北越商工便覧』
船江町の料理屋
武藏屋
遊廓の料理屋
皆川屋、須川屋、寳亭、魚久、魚七、巴屋、靑陽軒
荒屋敷
丸松屋
殿町の料理屋
榮屋、梅川屋
柳新道
田村屋
城内町一丁目の料理屋
鳥金、加藤支店
東坂ノ上町の料理屋
大味樓、魚福
城內町二丁目
三階亭、木南亭、廣瀨亨、屋、三芳樓、木村屋、梅月、わか田屋、山田屋
東坂ノ上町二の料理屋
松葉舘、吉田屋

出典:坪井政太郎 編『絵画北越商工便覧』
玉藏院町の料理屋
三浦屋、いばらきや
吳服町の料理屋
魚善、富川屋
關東町の料理屋
魚清・吉田屋
東神田町の料理屋
伊津清吉、大門屋
神田一之町の料理屋
魚清
神田三之町の料理屋
魚彌、魚傳
新町一丁目の料理屋
筒塲屋、魚伊
新町三丁目の料理屋
橫山屋
新町西浦の料理屋
あさひ
石內町の料理屋
魚藤、小菊屋、魚利、阿部角、和泉や
本町四丁目の料理屋
䀋屋分店
長岡市各種營業案內
長岡遊郭の情報誌として発行されていた「面白誌」に当時の長岡市で営業していた業者の情報をまとめてご案内している「長岡市各種營業案內」があります。
長岡市各種營業案內は「明治時代の長岡ガイドブック」で詳しく紹介しています。
明治〜大正時代の長岡市でおすすめの商店、工場、醸造所などを絵画北越商工便覧の絵画とあわせてご案内します。

\これからも長岡花火の感動を!/
楽天市場|長岡市公式ショップ丸ごとながおか
文治町の長岡新遊廓
長岡遊廓は、北廓(石内町)と南廓(千手横町・山田町・長原)の二つの遊廓が存在していました。
北廓の石内は川汽船の発着地(蔵王)や東山油田に近く最盛期には妓楼も15軒あったという。
南廓(千手横町・山田町・長原)は信濃川の草生津渡しがあるところで当時の交通の要所であることから
明治40年頃の花街は妓楼が千手横丁に17軒、山田町に10軒、長原に20軒もあったと言われます。
古志群長岡町から長岡市になったことで、北廓と南廓の花街をまとめることになり、山本町と山田町の中間部を区画整理して文治町に 1907(明治40)年4月8日に長岡新遊廓が誕生しました。
長岡新遊廓では、妓楼が軒を並べ、道は三本で中央が一等地、南側の山田町側が二等、山本町側が三等で妓楼は一等地、二等地に集中しました。

出典:柏崎図書館 小竹コレクション
長岡花街誌によると、15の藝妓屋組合と52の貸座敷が存在していました。
長生橋の辺りにある長岡花火を鑑賞する絶好の場所だったことがわかります。
現在の長岡新遊廓
昭和33年の売春防止法施行後には、長岡新遊廓の灯りは消え、旅館街へと変貌していきました。
長岡新遊廓の貸座敷だった今重は 2015 年頃まで今重旅館として営業していたようですが既に建物は解体されています。
現在の長岡市に文治町という町名は存在しなくて山田町という町名に変わっています。
出典・長岡遊廓の藝娼妓
掲載の文章・画像データは国立国会図書館デジタルコレクションから引用・転載を行っています。
すべて改正法施行前の時点で著作権保護期間(50年)を経過している文献になります。
- 『長岡花街誌』永田直治郎 著,
面白社,大正1, NDLデジタル - 『絵画北越商工便覧』坪井政太郎 編,
大正8, NDLデジタル - 『全国遊廓案内』,
日本遊覧社,昭和5, NDLデジタル - 『北越美人春曙花競』田村藤吉編, 長岡市立図書館
長岡遊廓の藝娼妓が寄付した明治の長岡花火
長岡花火の歴史で花火大会がはじまったとされる明治時代。
当時、長岡花火のスポンサーが藝娼妓だったことは明治16年の煙火目録(花火プログラム)を見ると判ります。
煙火目録には遊廓の藝娼妓の名前がズラリと並んでいます。
さらに、当時のメインであった大仕掛花火のスポンサーは長岡花火の初期に尽力した大島屋つる🌾さん。

長原遊廓 大島屋つる
出典:『北越美人春曙花競』田村藤吉編
始まったばかりの明治の長岡花火を寄付で支えて、明治四十二年までの三十年間をド派手に繁榮してくれたのは、まぎれもなく長岡遊廓の藝娼妓のおかげです。
長岡の一大名物になった長岡花火は、長岡全市の催しとして打揚げるべきとの意見が起こったことで、花柳界は身を引き、北越·越佐兩新聞社と商業會議所とが主唱者となった長岡市煙火恊會が中心となってとなりました。