慰霊の先にある長岡花火の歴史のはじまり|煙火目録「長岡花火の沿革」の変遷

慰霊・復興の先にある長岡花火の歴史のはじまり|煙火目録「長岡花火の沿革」の変遷
長岡花火の歴史

慰霊の先にある長岡花火の歴史のはじまり|長岡花火の沿革の変遷

長岡花火の起源については、長岡空襲の慰霊や平和への願いと結びつけられることが一般的です。

実は、長岡花火の歴史は戦前から歴史が続いています。

長岡花火の歴史を公的資料な文献や資料には、様々な事実が記録されているために…..。

諸説がありすぎます!

そこで、本記事では長岡花火を公式運営してきた長岡煙火協會、長岡祭協賛會、長岡祭協議会、長岡まつり協議会の発行した歴史資料「煙火目録」をもとにした「長岡花火の沿革」をご案内します。

慰霊と復興の花火の先にある「長岡花火のはじまり」の事実を解説します。

 

長岡花火ドットコムでは、長岡花火の歴史的な公式資料を基にして独自に調査した「長岡花火の歴史年表」完全版を公開しています。

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「長岡花火の沿革」の変遷

昔の長岡花火の公式資料といえる煙火目録には「長岡花火の沿革」が記載されています。

長岡花火の沿革には、長岡花火のはじまりと今までの歴史が記されています。

長岡花火の沿革(昭和9年)

昭和初期の長岡では、花火のことを「煙火えんか」と呼んでいました。

当時、長岡花火を運営していたのは、1910(明治43)年に北越·越佐兩新聞社と商業會議所とが主唱者となつて組織した長岡煙火恊會が行っていました。

長岡煙火協會が発行していた「煙火目録」には、長岡花火の沿革が記載されています。

長岡煙火は片貝(三島郡)の其れに依つて發達した元と云つて差支へ無い。片貝の煙火は明治初年或る外國人が秘傳を會得し硏究せられたもので、技術も進步してゐたと稱せられる。

槪して日本の煙火は戊辰前色火の輸入に依つて革新の機運を會し、著しく發達したものである。そして、打揚煙火の起因が、狼煙から出發したものであることは云ふまでも無い。

戊辰前、長岡藩士中、狼煙方、即ち火術に長じた武井龜右衞門、內田其彌兩氏が上下條(古志郡)の近藤六右衞門、土合(現市內)の熊倉彌太六等に煙火を敎へ、現在の協會煙火師中川利夫君の祖父も亦これを習得して
村社等の打揚煙火を製造したのである。そして當時發達してゐた片貝の花火に負ふ處があつたことは前に述べたとほりである。

長岡に最初川開煙火として打揚げられたのは明治十二年九月十四・十五日で長生橋下柳島で當時の長岡遊廓が主催したものである。これを記錄(長岡繁昌記)に見るに、約二百發と仕掛煙火も行はれ、見世物、露店等で殷賑を極めたものらしく晝煙火が多く、旣に尺二寸が試みられてゐる。

翌十三年九月(十四・十五兩日)遊廓組合の主催で打揚げられてから、この兩日が今に至るまで煙火大會日となつてゐるのである。
(年によつて些か變更せられたこともないではないが、殆どこの兩日は一貫してゐると言つてよい。

其の後全く中絶したことは無いが、これが斡旋者には變遷があり、明治四十年長岡煙火協會の組織を見て
今日に至つたのであるが、大正十四年組織に變革を加へ、整然たるものとなつて長岡の大年中行事として最大名物として益々成大に赴きつつあるのである。

玉の大小、技術等でも當然幾變遷あり、硏究發達して來たが二尺玉は大正七年に始めて、正三尺玉は中川繁治君が大正十五年秋始めて試み漸く完成の域に達して來た。

往時を追想して、今日の三尺玉、水中(金魚)煙火、或はスターマインとか、その他仕掛煙火にも種々の趣向の凝らされるのを見ると全くの隔世の感がある。

(引用:長岡煙火協会/編 煙火目録 長岡花火の沿革,1934)

今風に要約すると……。

  • 長岡の花火は、三島郡片貝の花火によって発展
  • 打ち上げ花火の起源はもともと狼煙(のろし)に由来
  • 「狼煙方」と呼ばれる火術に長けた藩士、武井亀右衛門と内田其弥が古志郡上下条の近藤六右衛門や熊倉弥太六らに花火の技術を伝えた。
  • 長岡で初めて川開き花火として打ち上げられたのは明治12年(1879年)9月14日・15日
  • 昼間に上げる花火が多く、すでに尺2寸玉の花火も試みられていた。
  • 明治13年(1880年)9月14日・15日に遊郭組合の主催による花火が花火大会の日として定着。
  • 大正7年(1918年)に二尺玉(約60cm)が初めて打ち上げらた。
  • 大正15年(1926年)秋に正三尺玉(約90cm)が中川繁治氏によって初めて試みられた。

昭和初期の長岡花火は小竹コレクションの絵葉書で見ることができます。タイトル画像の3枚は何も小竹コレクションの絵葉書です。(出典:小竹コレクション, 柏崎市公式サイト)

出典:長岡花火の沿革 煙火目録(長岡煙火協會)

昭和9年

長岡花火 煙火目録 昭和9年

出典:昭和9年 煙火目録(長岡煙火協會)

 

長岡花火の沿革(昭和31年)

長岡煙火の発祥は明確でないが明治の初年ごろから信濃川原で試みられたが、行事として行われるようになったのは明治十二年からで毎年九月十四・十五の両日長生橋柳島で鵜打上げられ以来十五夜の花火として之の両日を踏襲してきたのであるが昭和十年長岡観光協会の設立と共に打揚日を八月に変更して今日に至っている。

長岡花火の特徴と云えば明治時代より煙火の腕比べの試練場として附近煙火師が各々特技を競う事によって有名であり現在も尚技を競う花火大会として全国各地に宣伝せられている。

名物正三尺玉は全くの日本一で之れが最初に作られたのは大正十五年で故人中川繁治氏が永年苦心研究の結果創造せるものである。

往時三島郡片貝で三尺玉と称して打ち上げられた由ではあるが、これは二尺六寸玉であったと云う。

又現今各所で三尺玉と称して打揚げらえて居るものは概ね二尺五寸~二尺八寸で正三尺玉は長岡花火の誇りとする処である。

因に長岡の花火は協議会のみならず寄付玉にあっても各一発毎に数名の審査員に依って採点した優秀の者には賞を与えてその技術の向上を図っている

引用:長岡祭協議会,煙火目録,長岡煙火協会,1956
所蔵:長岡市立図書館

 

今風に要約すると……。

  • 長岡煙火の発祥は明確でないが明治の初年ごろから信濃川原で試みられた
  • 行事として行われるようになったのは明治十二年から
  • 毎年九月十四・十五の両日長生橋柳島で十五夜の花火
  • 昭和十年長岡観光協会の設立と共に打揚日を八月に変更
  • 長岡花火は煙火の腕比べの試練場として技を競う花火大会として宣伝
  • 名物正三尺玉は大正十五年で故人中川繁治氏が永年苦心研究の結果創造。
  • 各一発毎に数名の審査員に依って採点した優秀の者には賞
長岡祭協議会,煙火目録,長岡煙火協会,1956

出典:長岡大煙火目録,長岡祭協議会,1956

長岡花火の沿革(昭和41年)

藩政時代

長岡花火の発祥は明らかではありませんが、今から120有余年前長岡藩十代の藩主牧野忠雅のころ、たまたま天保11年(一八四〇)川越(埼玉県)移封の命令がくだったが、ほどなくして翌天保12年7月、この指令がとりやめになり、この吉慶を祝して打揚げられたのが始めとされております。

もちろんこのころの花火は「あいず」「信号用」程度のもので、現代の花火と同一視することはできません。その後幕末に至るまで目だつほどの発達もなく明治を迎えたといわれております。

明治時代

長岡における近代的花火の打揚げは、古い伝統をもっ片貝(現在小千谷市)の花火と深い関係をもち、その影響によるところが多く、即ち片貝の富豪某氏が、この片貝の花火を見物した長岡の芸妓達を集めて「片貝のような花火を打揚げて長岡の町をにぎわしてみる気はないか」ともちかけ、これが直接の動機となって、某氏が中心となり芸妓達の力を借りて花火打揚げの準備にとりかかり、そしてその歴史的な第一回の打揚げは、明治12年9月14日長生橋下流柳島の中洲で行われ、以来長岡の繁栄策として廓の人々の世話で毎年行うこととなりました。

その後明治の末期になると花火を全市の行事にしようとの気運が高まり、北越、越佐両新聞と商工会議所の三者が主唱者となり、明治43年長岡市煙火協会を組織し、これまでの長生橋煙火協会は発展的解消をとげ、新協会がいっさいの仕事をひきうけ、長岡の花火は広く市民の手にゆだねられ、ここに発展の一時期を画することとなりました。

大正時代

この時代に入ると火薬の進歩と玉の容積拡大により上昇力の増加が顕著となり、各種の発光剤や発煙剤が用いられ、製造技術も一段と進歩し、玉の大きさも大正の初期には尺玉(10号)が作られ、そして大正六年に2尺玉(20号)が加わり、さらに大正15年からは破天荒の大型花火正三尺玉(30号)が登場するにおよびました。

従いましてこの大正時代は長岡花火の一大変革期ということができましよう。

昭和時代(戦前)

大正末期以来昭和初期における花火大会は次第に規模も大きく、かっ華々しくなり昭和四、五年ころは
隆盛期のやまを迎え、番組数500打揚げ数も2000余発をかそえ全国的にも知られるようになりました。

そして昭和12年長岡観光協会の設立とともに雨がちの九月をさけて打揚げ期日を8月5、6日に変更、翌13年は戦時非常態勢というので中止、以後昭20年まで花火再会の機会に恵まれずに終戦を迎えることとなりました。

昭和時代(戦後)

戦争によって中断を余儀なくされていた花火も、戦後長岡復興祭の誕生とともに復活し、期日を8月1、2日に繰りあげ、さらに翌々23年から打揚げを2,3日に変更、ついで25年になると世相も安定し、商工会議所だけでは無理となり、26年から長岡祭と名称をかえて市が主催するようになるにつれて、人気もいよいよ高まり発展の一路をたどって今日の盛況をみるに至りました。

長岡花火の特色

何といっても日本一の長河信濃川河畔という恵まれた環境のもとで打揚げられる大型花火として有名であると同時に、打揚げのスピード化を増してきたことがあげられましよう。なかでも名物正三尺玉は長岡の花火師故中川繁治氏の永年苦心の作で、これこそ花火の総合技術の粋であります。

また近年市市内大手メーカーの協賛により長生橋の全長850mに仕掛けられるナイアガラ瀑布を彩る大仕掛けスターマイン「ナイヤガラ」と空前の大型立体式仕掛スターマイン「ベスビアス」などは、大型の長岡花火を代表する一大傑作であり、市民からはもちろんのこと、広く県内外からも絶大なる好評を博しており、いまや長岡祭の花火大会は夜空を彩る一大風物詩として全国から注目を集めております。

むすび

このように長岡の花火は、古い歴史と永い伝統を誇るものであり、時あたかも本年は市制施行六十周年という記念すべき年にあたり、これを機会に郷土の誇る長岡祭の決定版として、名実ともに日本一の折紙をいただくようさらに充実させてまいりましょう。

引用:長岡祭協議会,市政60周年記念長岡祭 花火大会,長岡煙火協会,1966

出典:長岡花火の沿革 長岡祭 花火大会(長岡祭協議会)昭和41年)

 

長岡花火の歴史アーカイブデータ

長岡花火大会のはじまりは明治12年です。

長岡花火ドットコムでは、歴代の煙火目録や長岡市の歴史、長岡花火の歴史資料など公的な情報から、どこよりも詳しい長岡花火の歴史と伝統のフルバージョンの年表を制作しています。

 

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長岡花火はじまりの諸説

長岡藩の砲術御覧の圖 1821(文政4)年

1821(文政4)年5月12日に長岡藩主の前で砲術師範である武衛亀右衛門の門弟によって順打ちが行われた。(出典:越後長岡年中行事懐旧歳記

長岡花火の起源とされます。

領地替えが沙汰止み 1840(天保11)年

長岡藩10代藩主牧野忠雅が川越移封の命が下り、翌年それが沙汰やみになったことを祝って「合図」を打ち上げたことが発祥。(出典:長岡まつり協議会ウェブサイトの記載)

千手町八幡神社の祭 1879(明治12)年

千手町八幡神社の祭に長原などの遊廓関係者がお金を出しあって、花火を打ち上げたことが最初といわれています。(出典:明治12年9月10日付 新潟新聞)

長岡遊郭の年中行事 1880(明治13)年

片貝の富豪であった佐藤佐平治と長原遊廓の大島屋のつる🌾をはじめとした藝娼妓が中心となって長岡遊廓の関係者が寄付した200余発を大盛況に打揚げたとあります。(出典:煙火の起源 長岡市史(長岡市 編)

長生橋下で打ち上げた最初の花火大会です。

長岡空襲後の復興祭 1945(昭和22)年

8月1日の長岡空襲の翌年である昭和21年(1946年)8月1日に開催された「長岡復興祭」をきっかけに復活。長岡花火には、長岡空襲で亡くなった人への慰霊や復興に尽力した先人への感謝、恒久平和への願いが込められています。(出典:長岡花火公式 長岡まつりに想いを込めて

長岡花火には長岡空襲で亡くなった人への慰霊、復興に尽力した先人への感謝、恒久平和への願いが込められています。

(引用:誇り-長岡市 市勢要覧

出典・引用文献

本記事は以下の文献をもとに編集しています。

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