長岡花火の歴史年表|公式に無い事実を史料からたどる明治〜令和の長岡花火史

長岡花火の歴史年表 発祥から発展、現在までの回顧録
長岡花火の歴史

長岡花火の歴史年表|史料からたどる明治〜令和の長岡花火史

長岡花火の歴史資料を長岡市立図書館、歴史文書館、国立国会図書館デジタルアーカイブから辿り調査を行った情報を集約した長岡花火の歴史年表をご案内します。

明治の花火史

(明治12)

  • 長岡花火の歴史の始まり
  • 千手町八幡神社の祭礼で長岡遊廓の関係者が醵金して花火350発を打揚げる。

八幡神社礼祭の花火
長岡千手町の八幡神社八九月十四五日の両日が例祭なるか、本年八同所千手横町、山田町、長原の貸座敷四十七名か醸金して花火を揚げたり、何れも七五寸にして小なるものハ四寸にて三百五十本を打揚げし事ゆゑ見物の群衆なす事彩たごしく近年稀なる祭典なりしと、然かして其花火の名目も又た面白し新案なれハ煩を厭はす記載して報道す
堤の提灯、長原通ひ、検梅院の黒札、放蕩息子、狐に松茸、長生橋の螢、芸娼妓の空涙、接摩の目覚、歯染の餅、水場の手拭、身受の蕎麦、酔覚の素麺

出典:明治12年9月10日付 新潟新聞

(明治13)

  • 長生橋下で最初の煙火打揚
  • 長原の大島屋つるをはじめとした長岡遊廓の関係者が寄付した200余発を大盛況に打揚げ。
  • 十四日 晝14発 夜80発 大仕掛
  • 十五日 晝14発 夜89発 大仕掛

出典:明治十三年 煙火目録

明治14)

花火大会が雨で順延となり9月16日、17日に打ち上げが実施されました。

出典:長岡市史 通史編  下巻

明治15)

長原の花火師、中川繁治がまとめた「日本西洋烟火之法」

日本西洋烟火之法には、硝石や硫黄を材料とする日本花火とともに、塩素酸カリウム・硝酸ストロンチウムなど、輸入薬品による西洋花火の成分表が色別に記されています。

洋火では赤・紫・黄など多彩な色を表現することができました。硝酸カリウムが日本に初めて輸入されたのは 1879年(明治12)年頃とされるので、中川繁治はその直後から西洋花火づくりに取り組んでいたパイオニアです。

日本西洋烟火之法 中川繁治

出典:日本西洋烟火之法 中川繁治

出典:長岡市史 通史編  下巻

(明治22)

長生橋西の柳島で打ち上げられた。

花火の数は、4寸玉49発、5寸玉92発、7寸玉83発、大仕掛3発である。これらは南廓の貸座敷や芸妓その他からの寄付によるもので、長原の長谷川勇八氏らが専ら取り仕切っている。

また両日とも、山田町の濡仏の前に舞台を設け、当地の雛妓(若い芸妓)たちが手踊りを披露し、来場者に観覧させたという。

長岡花火の恒例化
長岡通信(一日発)烟火来る十四十五両昼夜例年の如く長生橋西柳島にて打揚る烟火の数八四寸玉四十九発五寸玉九十二発七玉八十三発大仕掛三発にて、右は南廓貸座敷及び芸妓其他より寄附せるものにして、長原長谷川勇八氏等が専ぱら幹旋する処ろなりと、又右両昼夜共山田町ぬれ仏の前に舞台を設け同地雛妓連が手踊りして諸人に縦覧させしむる由(後略)

出典:明治12年9月10日付 新潟新聞

(明治33)

1990年(明治33)の長岡花火は6月22日と24日に開催されました。
明治29年、30年の信濃川の大水害大水害の後、しばらくは、伝染病を恐れて長岡花火の開催日が一定しなかったようです。

六月二十二日と二十四日に開かれている。いずれも夜中の一時まで続き、例年二〇発程度であった一尺二寸玉が五〇発も上げられた。西洋花火が長岡花火の主流になったのは、この年であったようだ。

出典:長岡市史 通史編 下巻

 

(明治35)

南郭の貸座敷営業者が遊郭の移転に反対し、大花火の主催をやめることを決定したが10月1日、2日に開催された。

明治三十五年(一九〇二)十月一、二日に打ち上げられた。ほとんど万を数える人々が押しかけ、仕掛け花火の金魚水遊に一驚したという。水中花火の一種であった。

出典:長岡市史 通史編 下巻

また、柳島では競馬会が開かれて、坂之上では日本人と外国人の合同相撲大会が開催された。花火も娯楽の中心のひとつで、競馬や相撲と並列されていたことが当時の新聞から読み取れます。

花火・競馬・相撲のにぎわい
長岡の煙火と競馬一昨及昨日は長生橋に火打揚げあり、又柳島には連合臨時競馬会あり、一昨日は幸ひ朝来晴天なりし上かも期日のこととて市在共に休日なりしかは、近郷近在より長岡に集れるもの願る多く市中は非常に賑かなりしが、尚昨日は花火競馬の外坂之上には内外人の合併相撲あり、其勝負よりは知らぬ異人の顔見んとて老若男女の群集するもの一人に多かりしならん

出典:明治35年10月3日付 新潟新聞

(明治36)

長岡名物大花火は雨天により9月19日、20日に延期開催となりました。

19日も途中から大雨になり中止、残り80余発は翌21日に延期となり、20日もまた雨天だったが小雨になり、曇天で深夜12時まで打ち上げられた翌21日夜も雨模様だったが、19日に中止となった残りの80余発が打ち上げられました。

待ちに待った大花火は、雨や曇天の中で天候に恵まれませんでしたが観衆三万人が集まり、華やかに装飾した遊船の数が特に多かったという。

明治三十六年九月十九日二十日ノ両日長岡名物タル例ノ草生津大煙火ハ愈打揚ラル、事二決定セリ、隅九月十九日至ル北日朝来雨姻欝トシテ止マズ、彼我皆晴天ナラン事ヲ誓フ、(中略)翌二十一日夜八既載ノ如ク雨降り績キタリシモロロマズ十九日ノ打揚残八十余発ヲ打 揚タリ、

出典:柳原町 堀田啓介氏蔵「年替録」第二号)

(明治37)

花火大会の主催者だった貸座敷業者が遊郭移転に反対して中止になったが、文治町(現山田町)の料理屋や魚屋の運動により日程を変更して9月24日、25日に花火大会が開催されました。

貸座敷業者が反対に回っていったん中止となったが、料理屋や魚屋などが運動して、九月二十四日、二十五日の開催にこぎつけた。

出典:長岡市史 通史編 下巻

(明治40)

草生津堤防沿に桟敷さじきが設置される。

南郭(千手横町・山田町・長原)と北郭(石内)が合体し、文治町(現:山田町三)で長岡新遊郭として営業を始めた。

これを機会に、花火を遊郭の手から離し、市の主催にしたいという強い希望が、市民の間に広がった。

(明治42)

長岡市民主催の花火の願いも新遊廓方面からの寄付もあり、市の花火とするのは来年からということになった。

花火大会は、9月14日・15日の両日昼夜に柳島社で行われて、仕掛け花火や早打ちを合わせて約600発打ち上げられた。遊覧船も数多く漕ぎ出され、近年に比類のない盛況であった。

本年度ヨリ草生津町ノ烟火ヲ長岡市ノ烟火ニセントテ有志間ニテ折々協議アリシ由ナリシモ、新遊廓方面ニテモ略寄附モアリシ由ナルヨリ、改メテ市ノ烟火トスルコトハ来年ヨリトシテ本年度ハ例ノ如ク九月十四十五ノ両昼夜柳島社ニテ仕掛早打共約六百モ打上ゲラレタリ、遊覧船モ数多ク漕ギ出セルタメ近事無比ノ盛況ナリシ

出典:柳原町 堀田啓介氏蔵「年替録」第二号)

 

(明治43)

商業会議所と北越新報社・越佐新報社が中心になって、長岡市大煙火協会が発足。大煙火協会が運営の一切を仕切ることになった。

出典:長岡市 編『長岡市史』通史編 下巻

大正の長岡花火

(大正元)

明治天皇の大葬の行われた1912年(1大正元)の大花火は中止された。

(大正2)

長岡市大煙火は、8月31日と9月1日に行われた。

(大正3)

明治天皇死去の第三期の喪が明けたことで、不景気挽回策として、例年よりも盛んに打ち上げられた。

(大正6)

4発の二尺玉が打ち上げられました。打ち上げたのは百束の親分的な花火師である田崎藤蔵氏。

(大正7)

  • 煙火マニア 渡邊祐吉🌾が「趣味の花火」を發行
  • 「越後・富山・加賀・越前の四県連合糸共進会」の開催により花火大会が延期
  • 共進会の開会式では、長生橋ほとりに御座所が設けられて皇族の閑院宮殿下が花火をご覧になった。

    大正七年は長岡市に十月十日より五日間越後、富山、加賀、越前 の四縣聯合絲共進會開催につき 例年九月十四・五の両日打揚ぐる 煙火大倉を延期せり、偶々、共進會に開院宮殿下臨御在られられた るに依り、長生橋畔に御座所を設け煙火を御覧のらせられたり

    出典:田村君雄 編『長岡市案内』

(大正12)

関東大震災により長岡の花火大会の中止となり用意されていた花火はそのまま保存された。

大正十二年九月一日東都及 び四豚に稀有の大震災ありたるに 依り見合せ、出來上りたる煙火を 其盛保存し、大正十三年六月一二 両日攝政宮殿下御成婚記念就賀會 日、打揚げ娠を極めたり。

(大正13)

前年から保存したいた花火を6月12日の摂政宮殿下(後の昭和天皇)のご成婚記念祝賀会の日に打ち上げ。

(大正15)

  • 初の「正三尺玉」を9月15日に打ち上げ(初)中川繁治氏(長原)
    取説 正三尺玉の歴史

 

出典:長岡の正三尺玉花火 長岡ふるさと大百科

昭和(戦前)の長岡花火

(昭和2)

スターマイン🌾「速射連発」(初)

(昭和6)

上越線全通記念博覧会の余興として、会期中に三尺玉を合計17発打ち揚げ。長岡市初の昼の三尺玉に数百の風船を散乱させたり夜の仕掛花火と共に大いに好評でした。

全國に花火に誇りを持つ所も少くないけれど富市三尺玉の如きは其例なく珠に畫の三尺玉は當市としても今回が最初であつて一発に数百の風船を空中に散乱せしめ、夜の池畔の仕掛花火と共に大いに好評を博し長生橋下流で打ちあげる夜の花火は會場内長岡出品舘あたりの上に鮮かに散開し一入の賑ひを添へた。

出典:長岡市主催上越線全通記念博覧会誌

(昭和7)

電燈一斉消灯だった三尺玉打ち上げ合図がサイレンになりました。

出典:煙火目録 昭和7年

(昭和10)

  • 開催日を雨の多い9月から8月5日・6日に変更。
  • 長岡市観光協会が設立され長岡市觀光協會の煙火部の事業となる。

(昭和11)

  • 正三尺玉、筒割れで打ち上げ失敗 8月6日

出典:杉村広太郎 著『楚人冠全集』第12巻

(昭和12)

  • 戦前最後の長岡煙火。
  • 全国有名花火師が全部協力して精魂傾けて作った、長岡の四季をテーマにした全十二 景の「空中レビュ ー」が披露された。

(昭和13)

戦争により長岡大花火大会が中止

昭和(戦後)の長岡花火

(昭和22)

  • 長岡復興祭で長岡花火(8月1日・2日)が復活
  • 350発余が打ち揚げられ3万人の観客で賑わった

夜空に一大花園
歓声あがる煙火大会待望の煙火は午後七時から長生橋下手信濃川の中州で打揚げられた(中略)十分毎に打揚げられる五、七寸、尺玉の間に、七寸三発打ち、尺玉二発打ち、三段打ち、四十発早打ちなどを織りまぜ、中天にケンラン華麗な一大花園の観を呈した
かくて正九時、呼びものの大仕掛スターマインが、とうとうと流れる倍濃川の水際に、壮麗無比の美観を呈し、割れんばかりの喝采のうちに、煙火大会一夜の幕を閉じた

出典:昭和21年8月2日付 新潟日報

(昭和23)

8月1日を「戦災殉難者の慰霊」の日とし、8月2・3日を「花火大会の日」と改める。

 

(昭和26)

  • 復興から発展への願いを込めて復興祭から「長岡祭」と改称された。
  • 長岡市からの依頼を受けた嘉瀬誠喜氏・誠次(下條)花火師が戦後初となる「正三尺玉」が2発打ち上げられた。
  • 正三尺玉は14年ぶりの打ち上げ。

出典:長岡市史 通史編  下巻

 

(昭和28)

長生橋に嘉瀬花火師が考案した仕掛花火「ナイヤガラ大瀑布」が初登場。

市から新しい花火はないかと頼まれ、3日考えたよ。長生橋にナイアガラを仕掛けてやろうと。
しかし、当時の橋を管理する建設省がなかなかいいと言わない。国道にかかる橋に火付けるなんてさ、だめらこてね普通。親父が何度もお願いして実行できましたけどね。端から端まで870mに取り付けたんですよ。

出典:ながおか市政だより No.707

 昭和34

  • 長岡祭大煙火大会が「長岡まつり大花火大会」に名称が変更
  • 大花火大会は八月二日だけの開催。

 昭和35

長岡花火でお馴染みの「ベスビヤス🌾」が初登場!

花火業界のニュー・フェースといわれるビスビヤス(スターマインと仕掛け花火=ナイヤガラーをミックスしたかたちで空中でひらく)のお買見えをはじめ、三戸玉の二発を含めて、打ち上げ総数千数百発

出典:市政だより No.71

 昭和36

30号花火打揚げ場所を 200m 川下へ移動

 

 昭和41

  • 市政60周年記念長岡祭
  • 日本一の大花火絵巻 3発上がる30号
  • 県内外の花火師による10号玉鑑賞タイム🌾

昭和43

  • 全国有名花火師による美と技の競演(10号玉鑑賞タイム)
  • 来場者 60万人

 昭和45

  • 北島三郎さんが歌う「長岡大花火音頭🌾」が発売
  • 県内外の花火師による尺玉鑑賞タイム
  • 来場者:45万人

 昭和47

  • 協賛スポンサーの花火文字が終了
  • 名物だった水中花火が終了

 昭和48

  • 協賛スポンサーの読み上げ放送が開始

 昭和51

  • 雨天により3日の打ち上げ花火が7日に延期
  • 原信が正三尺玉を初協賛、4発打ち上げ!

出典:長岡市の大花火 昭和51年

 昭和52

正三尺玉を4発打ち上げ(大輪菊、しだれ柳、小割り千輪、黄金すだれ)

出典:長岡市の大花火 昭和52年

 昭和58

当時、ギネス記録になった三尺五寸玉が花火師嘉瀬誠次によって打ち上げられた。

  • 三尺五寸玉(昇り曲導付黄金すだれ小割浮模様)〈嘉〉(8月2日)
  • 打ち上げ筒は郷土史料館に展示

出典:長岡市の大花火 昭和58年

 

 昭和61

  • 市制80周年を記念した尺玉80連発の打ち上げ。(翌年からプラス1発)
  • 冨田勲氏のシンセサイザーの壮大な宇宙音とレーザー光線と長岡大花火の競演「光と音の祭典」(8月4日)

出典:長岡市の大花火 昭和61年

 

 昭和62

  • 大手大橋にナイアガラ大瀑布(初)
  • 上越新幹線あさひ357号が笹崎で10分臨時停車で正三尺玉を鑑賞
  • 世界の花火フェスティバルでアメリカ・イギリス・中国・フランス・ブラジルの花火を花火師 嘉瀬誠次さんが打ち上げ

出典:長岡市の大花火 昭和62年

 昭和63

  • 煙火目録から打ち上げ花火師の記述が無くなる。

出典:長岡市の大花火 昭和63年

平成の長岡花火

 平成2

  • ナイアガラと正三尺玉の同時打ち上げ
  • ロシアのハバロフスク市で白菊®🌾の打ち上げ(嘉瀬誠次)

出典:長岡市の大花火 平成2年

 平成7

きんさんぎんさんが長岡花火を観覧。長寿花火「金燦銀燦きんさんぎんさん」の打ち上げ。

出典:長岡市の大花火 平成7年

 平成8

花火師 嘉瀬誠次氏が市制90周年を記念して「ワイドスターマイン🌾」(初)を打ち上げ

出典:長岡市の大花火 平成8年

 

 平成10

嘉瀬誠次花火が考案したX(新型花火)が打ち上げ開始。2箇所から同時に斜め打ちされたスターマインが空中で交差する立体感あふれる演出となっている。

公募された X(新型花火)の名称は「ミラクルスターマイン🌾」に決定しました。

大雨により花火大会が延期 8月6日・7日に実施

出典:長岡市の大花火 平成10年

 平成12

70年に渡って正三尺玉を打ち揚げた大阪海軍工廠製の打ち揚げ筒が引退しました。

出典:長岡市の大花火 平成10年

 平成13

出典:長岡市の大花火 平成13年

平成14

平成15

  • 大ナイアガラから超大型スターマインへアップデート
  • 来場者 81万人
  • 白菊®🌾が長岡空襲の同時刻(8月1日 22:30)に3発打ち上げ

出典:長岡市の大花火 平成15年

平成17

  • 復興祈願花火「フェニックス」の打ち上げが開始
  • 昼行事はミッキーマウス、ミニーマウスとダンサーなどが来場して大手通りをパレード
  • 平原綾香さんが8月3日に来場、長岡花火大会の前にライブで Jupiter を歌唱

出典:長岡市の大花火 平成17年

平成18

  • 市制100周年を記念した尺玉100発の打ち上げ
  • 正三尺玉3連発のひとつが筒割れで失敗(8月2日)
  • 世界の花火ショーで嘉瀬誠次 最後の花火「正三尺玉2連発🌾
  • 名物MC 佐野護のFM三尺玉が開始

出典:長岡市の大花火 平成18年

平成19

  • 長岡まつり情報が長岡市公式サイトから長岡花火公式サイトへ
  • フェニックス・ミュージックフェスの開催(2日 郷ひろみさん、3日 平原綾香さん
  • 来場者 39万人/40万人

出典:長岡市の大花火 平成19年

平成20

  • 大河ドラマ「天地人」の放送を記念して打ち上げられた天地人花火🌾。花火のメインテーマは「愛と雪」直江兼続の兜の前立の文字「愛」と越後の自然「雪」とを象徴しています。
  • ご当地風景ドットコムで初のインターネット中継

出典:長岡市の大花火 平成20年

 

平成21

  • 大和長岡店がスポンサーの最後の正三尺玉
  • 来場者 47万人/41万人

出典:長岡市の大花火 平成21年

>平成22

  • INPEX が正三尺玉の新スポンサー
  • ヨネックスがミラクルスターマインの新スポンサー

出典:長岡市の大花火 平成22年

平成23

  • 東日本大震災で被災した石巻でミニ・フェニックスを打ち上げ。リレーで冒頭にフェニックス7を打ち上げ。

出典:長岡市の大花火 平成23年

平成24

  • 東日本大震災で被災した石巻でミニ・フェニックスを打ち上げ。リレーで冒頭にフェニックス7を打ち上げ。

出典:長岡市の大花火 平成23年

平成26

  • 平原綾香さんが再来場(8月3日)、長岡花火大会の前にライブでJupiterを歌唱
  • 復興祈願花火「フェニックス10」が5分10秒のフルバージョン
  • メッセージ花火の終了
  • 来場者 53万人/50万人
  • 中越大震災10周年復興花火〜白菊(10月23日 17:56)

出典:長岡市の大花火 平成26年

平成27

  • 正三尺玉を3連発で打ち上げ(初)
  • 正三尺玉とスターマインの共演
  • 花火『故郷はひとつ』(初)
  • 来場者 56万人/48万人

出典:長岡市の大花火 平成26年

平成28

出典:長岡市の大花火 平成28年

 

遊廓から慰霊・復興へ、明治から令和の長岡花火の歴史の変遷

長岡花火の歴史は、長岡空襲の慰霊から始まり── と思われていますが、長岡花火の始まりは明治時代からです。

長岡花火ドットコムでは、長岡花火の公式記録である煙火目録「長岡花火の沿革」や国立国会図書館デジタルアーカイブ、長岡まつり大花火大会の公式記録、歴代の新聞記事、歴史資料の解読、独自に取材、調査を行った情報を集約した長岡花火の歴史と伝統の
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をご案内します。

明治から令和に至るまで146年続く、長岡花火の奥深い歴史をどこよりも詳しくご案内します。

長岡花火の歴史と伝統|遊廓から慰霊・復興へ、明治から令和の大花火の変遷

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長岡花火ドットコムは長岡花火の専門情報サイト。情報収集のプロとして長岡花火146 年の歴史から最新情報まで信頼性の高い情報を提供。観覧チケット、宿泊、名産品、観光スポットなど長岡花火だけじゃない「花火の街、長岡」の魅力を全方位でご案内する長岡花火の取説です。|ローカルガイドLV7

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