長岡花火の歴史|長岡花火の礎となった長岡藩の砲術御覧の圖 満天白・銀河星・雷火星

長岡花火の礎となった長岡藩の砲術御覧の圖 満天白・銀河星・雷火星
長岡花火の歴史
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長岡花火の礎となった長岡藩の砲術|長岡花火の歴史のはじまり

現在、長岡花火は「長岡空襲の慰霊・平和の願い」を象徴するものとして知られています。

なぜか、長岡花火公式サイトや道の駅ながおか花火館の歴史年表には記載がありませんが、長岡では江戸時代から長岡花火と関係が深い火薬を使った砲術が行われていた記録があります。

長岡藩主牧野家に伝わる「諸珍舗永代帳」によると1821(文政4)年 5 月 12 日に長岡藩主の前で砲術師範である武衛亀右衛門の門弟によって順打ちが行われたと記載があり長岡花火の歴史のはじまりとも言えます。(出典:今泉省三 著『長岡の歴史』第5巻)

「長岡藩主の転封沙汰止めが起源」
天保12)とされる説もあります。

その後、明治時代になると長岡遊郭の藝娼妓たちが協賛して長岡の一大名物になるまで発展させました。

昭和の初めには「長岡の大煙火」として全国的に有名になりましたが戦時下で中止に追い込まれました。

戦後なると長岡空襲の慰霊・鎮魂、中越地震からの復興祈願の花火としての意味が加わり、現在の長岡花火へと発展しました。

このブログ記事では、長岡花火の歴史のはじまりと言える、藩政時代に長岡藩の炮術師が披露した「砲術御覧の圖」を古の文献からご案内します。

炮術の順打ち 〜 諸珍鋪永代帳

長岡藩主牧野家に伝わる「諸珍舗永代帳」によると1821(文政4)年 5 月 12 日に長岡藩主の前で砲術師範である武衛亀右衛門の門弟によって順打ちが行われたと記載があります。

文政四年五月の炮術の順打ちのときは、これを見ようとする観客で押すなおすなの賑わいであった。

「此日、他所人入込み数万人、賑之事不及申候」(この日、他の地域からも多くの人が訪れ、その数は数万人に上り、非常に賑やかであったことは言うまでもありません)

─ 

(引用:今泉省三 著『長岡の歴史』第5巻,野島出版,1972. NDLデジタル

と伝えられています。

炮術の順打ち

煙火 炮術師
壱〆三百玉 火矢居抱 村越 鋭三郎
昼相図 六寸玉 武衛 亀右衛門
壱〆三百玉 火矢居抱 稲垣彦八郎
昼相図 七寸玉 山本 勘右衛門
壱〆三百玉 火矢居抱 畑山 又五郎
昼相図 五寸玉 森田 伝右衛門
石火矢三百玉筒
捨本火矢仕掛ケ
村井 伊左衛門
昼相図 七寸玉 黄燈往来 稲垣 平助
昼相図 六寸玉 柴崎 九郎次
五丁早打発火矢三発づつ 稲垣 勒負
五丁発火矢連打仕掛ケ 大平 五郎三

(引用:今泉省三 著『長岡の歴史』第5巻,野島出版,1972. NDLデジタル

夜の合図

煙火 炮術師
三寸五分玉 火乱星 太田 左吉
三寸五分玉 銀河星 鳥居 郡蔵
七寸玉 満天白 山本 勘右衛門
四寸玉 柳火三光 曽根 百助
六寸玉 往来星 陶山 善六
六寸玉 飛蝶火 三堀 太郎兵衛
七寸玉 火乱星 稲垣 平助
六寸玉 銀河星 山本 帯刀
七寸玉 玉簾星 稲垣 勒負
六寸玉 火乱星 稲垣 林四郎
六寸玉 散乱星 秋原 伴六
虹火連打ち 牧野 覚八
六寸玉 一色星 吉田 善左衛門
七寸玉 雷火星 稲垣 周之丞

(引用:今泉省三 著『長岡の歴史』第5巻,野島出版,1972. NDLデジタル

砲術御覧の圖 〜 懐旧歳記

長岡藩の元藩士、小川當知が著した「越後長岡年中行事懐旧歳記」には、藩政時代の長岡年間イベントが書かれています。(出典:懐旧歳記 中島に於いて砲術御覧の圖 )

その中に、

三月下旬より五月頃迄之内、
中島に於いて砲術御覧の圖

というイベントが書かれています。

砲術師範

石高 炮術師(流派)
百六十石 武衛 亀右衛門(武衛流)
百二十石 二見 武作(武衛流)
百石 内田 甚弥(南蛮堅杯流)
五十石 池田 彦四郎(南蛮堅杯流)

(出典:懐旧歳記 中島に於いて砲術御覧の圖 )

最初に武衛右衛門が砲術の訓練を担当して、これを基準として、前後の順番を決めました。

 

角場三十間 真之矯

具体的な砲術は、砲術の訓練場で、角場三十間の距離(約54メートルの距離)から砲を放ちます。

師範役は鎖帷子を上下に着用し、座った状態で砲を撃ち、正確に標的に命中させるための技術を披露しました。

目中

最初に2、3人が準備をし、「開脇杯かいわきはい」と呼ばれる形式で発砲します。

開脇杯とは、肩や脇を開いた姿勢で構えることで銃や砲の反動を効果的に受け止め、発射の際の安定性を向上させる砲術姿勢です。

これを行うのは特に優れた技術者です。

その後、初級者から高弟(熟練者)まで、技術の熟練度に応じて訓練が行われました。初級者は膝台に玉筒を置き、徐々に技術を向上させながら発砲します。

師範役が最終的にその訓練を締めくくります。

立矯(たちぎょう)

ベテランの者2〜3人が拾目玉じゅうめだまを発射します(特に、強い装束を着用します)。

大筒

大筒を使った発砲が行われ、ベテランの男性が拾目玉(じゅうもくだま)を撃ちます。この場合、強力な装束を着用します。
大筒:特に強壮な者が五百目玉から一貫目、または一貫三百匁玉を膝台に置いて発砲します。一貫三百匁玉(1貫は約3.75kg)を撃つ筒は約18貫目(67.5kg)と言われています。

さらに御好おこのみによって選ばれた技術の高いベテランの技術者が再び砲術を披露します。

火矢の技術

火矢を手に持って撃つか、または置台を使って発砲します。

火矢の作り方にはいくつかの違いがあり、発射距離は三町(約327m)・五丁(約545m)・七丁(約763m)・十丁(約1,090m)から十八丁(約1,963m)までありました。

これらは、「遠町とおまち」と呼ばれた長距離射撃です。

昼の砲術演習 打上

砲術の訓練や演習は、昼間に行われることが多く、次のような内容がありました。

赤龍や白龍、時雨、黄烟柳、黒龍、雷鳴などの技を見せました。これらはそれぞれ形状や効果に応じた名前が付けられていました。

その他にも、地雷や火殺砲、焼備など、さまざまな種類の砲術が行われました。

発射される砲弾の大きさは三寸玉、四寸玉、五寸玉、七寸玉、一尺玉など、多種多様でした。

夜の砲術演習

夜にはさらに見ごたえのある演習が行われました。

夜空に打ち上げると、火の玉が乱れ飛び、星が散らばり、銀河のような光を放つ演出がありました。また、紫光星や提月、満天白雷、飛蝶火など、色彩豊かな演出が行われました。

これらもそれぞれ名前に応じて異なる火色や形状が見られました。

花火の起源としての砲術もともとこれらの技術は砲術であり、狼煙(のろし)などを用いていたものが、次第に改良され、現在の花火に進化していったと記されています。

 

長岡藩主の転封沙汰止め

長岡花火と関係の深い歴史のひとつに長岡藩主の転封沙汰止め(1841年 天保12)があります。

江戸幕府が庄内藩主酒井忠器を越後国長岡へ、長岡藩主牧野忠雅を武蔵国川越へ、川越藩主松平斉典を庄内へ転封しようとしたの三方領知替えの命です。

庄内藩が大反対(天保義民事件)したことで翌年、領知替えが沙汰止め(=取りやめ)になりました。

長岡藩主の武蔵国川越への転封が沙汰止めになったことを祝った祝砲があげられました。

長年、長岡藩の藩主である牧野氏が、そのまま統治することを祝って藩公のお國入と共に長岡城下の中島で「合圖(合図)」を打揚げたことが長岡花火の発祥とも言われています。

おめでたいときに「やったーー!ドーン!ドーン!」と打ち上げていたようです。

砲術から煙火への発展

その後、藩の砲術師から砲術の技術が古志郡上下条の近藤六右衛門・土合村の熊倉弥六太などの民間人に伝わって祭りの余興として発達していきました。

アップデートされた「合圖(合図)」が夏秋の村祭の余興として煙火が打揚げられるようになりました。

余興で打ち上げる煙火が疑わしいと、幕府から打揚を禁止せられた事もあったけど、煙火楽しすぎる!と違反者が続出。

村祭などが結合して、盛んに煙火の打ち上げが行われるようになっていきました。

越後長岡年中行事懐旧歳記には、七月十八日に「御蝋座稲荷宮灯籠摘、草花火興行」とあり、稲荷神社で行われた灯籠を奉納する祭事で花火を打ち上げていたと思われます。(出典:『越後長岡年中行事懐旧歳記』,弘文荘,1964

狼煙といった戦術的な意味合いを持っていた砲術の技術から視覚的に美しい演出が生まれ、花火として娯楽や儀式の一部となっていきました。

この後、明治時代に長岡遊廓がはじめて長岡花火大会へと繋がっていきます。

長岡花火のはじまりは、長岡空襲の慰霊・鎮魂・平和への願いが通説とされますが、それよもずっと前、藩政時代の砲術、明治時代の長岡遊廓の藝娼妓が協賛した煙火、昭和初期の大煙火と長い歴史があります。

 

出典一覧・参考文献

運営者の情報
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