慰霊・復興だけじゃない『煙火目録』で見る長岡花火の歴史
長岡花火の始まりは「長岡空襲の慰霊と復興」── と長岡市民でも思っているひとも少なくありません。
長岡花火の本当の歴史を始まりは「煙火目録(花火プログラム)」から窺い知ることができます。
煙火目録には、煙火目録には、花火師、花火玉の名、協賛スポンサーといった情報が記録されていて、当時の長岡花火を伺い知ることができます。
長岡花火ドットコムでは『煙火目録×長岡花火』に注目して、慰霊・復興だけじゃない長岡花火の本当の歴史を煙火目録から読み解きます。
長岡遊廓の芸娼妓たちと長岡花火|明治の煙火目録
長岡花火のはじまりは明治12年で、最も古い煙火目録は、明治13年の煙火目録を閲覧できます。
煙火目録には、玉名・大きさ・協賛者が記載されていて当時の長岡花火がだれを中心にして打ち上げられていたのかわかります。
協賛者には山彦、今重、大しまや、一力やといった長岡遊廓の貸座敷の楼名がずらっと並び、多くの遊廓の芸娼妓たちの釀金によって打ち揚げられていたことがわかります。(長岡花火大会の発起人のひとりとされる大島屋つるさんの名前は見つかりませんでした。)
明治13年の煙火目録

出典:明治13年の煙火目録(長岡市歴史文書館所蔵)
明治16年の煙火目録
煙火目録にはデカデカと大仕掛を協賛した『大島屋つる』とあります。
野分ノ薄九尾の亂走(秋の暴風に吹かれるススキの野を、九尾の狐が乱れて走り回る情景)の大仕掛けはどのようなものだったのでしょうか。

出典:明治16年の煙火目録(長岡市立図書館所蔵)
長原遊廓の大島屋つるさんは『北越美人 春曙花競』にも登場する美人藝妓でのちに料理店『若滿都』の女将、西山つるとなります。

出典:『北越美人春曙花競』田村藤吉編
取説
長岡花火の煙火目録|明治16年
明治27年の煙火目録
明治中期の煙火目録も上州や、唐津や、須栗やといった貸座敷の藝娼妓の源氏名が並びます。
その他の協賛者には、山田町(遊郭)にあった湖南亭など料亭の名前もあります。

出典:明治27年の煙火目録(長岡市立図書館所蔵)
明治44年の煙火目録
長岡花火が花柳界の手を離れて「長岡市煙火恊會」が主導するようになり、遊廓も南廓・北廓が統合されて長岡新遊廓となってからも貸座敷の藝娼妓たちの多くの釀金によって打ち上げられている事実を煙火目録から知ることができます。

出典:明治44年の煙火目録(長岡市立図書館所蔵)
取説
長岡花火の煙火目録|明治44年
明治の煙火目録
煙火目録を読み解くと、長岡花火の起源は、一般に知られる「長岡空襲の慰霊と復興」ではなく、明治時代に長岡遊廓の藝娼妓たちが廓の繁栄を願って打ち上げた“祝祭の花火”が始まりだという史実があります。
長岡遊郭の藝娼妓たちや料亭など関係者たちが、毎年の花火大会に協賛し、地域の文化振興と遊廓の活気づけに大きく貢献していました.。
市民が盛り上げた長岡花火|昭和初期(戦前)の煙火目録
昭和初期(戦前)の煙火目録は、多くの個人名や商店の名前が並び、市民が協賛していた時代の長岡花火だったことが伺い知れます。
株式會社もありますが、長岡花火を市民が支えていた時代。
昭和7年の煙火目録
長岡で、はじめて正三尺玉が打ち上がったのが大正十五年。
昭和初期にはすで正三尺玉が普通に打ち上がっていました。
昭和六年に開催した『上越線全通記念長岡市博覧会』では期間中には17発の正三尺玉が打ち上がったとされます。(出典:上越線全通記念博覧会 編 『長岡市主催上越線全通記念博覧会誌』)

出典:昭和七年の煙火目録(長岡市歴史文書館所蔵)
昭和初期(戦前)になると煙火目録から藝娼妓の名は一切無くなっています。
その代わりに、長岡市料理店組合・長岡市藝妓屋組合として大玉を打ち揚げていました。貸座敷組合も尺玉を打ち上げています。(出典:昭和九年 煙火目録)
昭和12年の煙火目録
戦前最後の長岡花火では長岡の四季を12発の花火玉で表した『花火レヴユ』が打ち上げられたことがわかります。

出典:昭和十二年煙火目録(長岡市立図書館所蔵)
取説
長岡花火の煙火目録|昭和12年
昭和初期の煙火目録
スターマインの打ち上げは少なく、七寸・尺といった単発の打ち上げ花火を楽しむ風情のある花火大会だったと思われます。また個性的な玉名が並び、どのような花火だったのか知ることはできませんが興味深いです。
協賛会社にも注目で、
- ドライクリーニング渡邊工場=渡辺ドライ
- 中越酒造株式會社=吉乃川
といった、今も長岡花火を協賛してくれている企業が昭和のはじめから長岡花火を応援してくれていることに驚きます。
なぜ、長岡花火の始まりは長岡空襲の「慰霊と復興」と言われるのか?
なぜ、長岡花火のが始まりは長岡空襲の「慰霊と復興」と言われるのかその理由は、(たぶん)長岡まつりと長岡花火を同じだと思ってるから。
実は、長岡花火 公式ウェブサイトをみると
毎年華やかに繰り広げられる「長岡まつり」
その起源は、長岡の歴史に刻み込まれた、
最も痛ましい、あの夏の日に発しています。
(引用:長岡花火 公式ウェブサイト)
と書いてあります。
「長岡まつり」の起源は長岡空襲から1年後の昭和21年8月1日に開催された「長岡復興祭」と説明していますが、長岡花火の始まりとは一言も言っていません。
「長岡まつり」と「長岡花火」を混同して「長岡まつり」の起源を長岡花火のはじまりと思い違いしてるのです…。
残念なことですが、長岡市民でも長岡花火のはじまりが「長岡空襲の慰霊と復興」と信じている人が少なくありません。
花柳界が中心となって長岡花火は発展して、長岡遊郭の年中行事だったことも長岡花火の歴史だし、戦前から正三尺玉を打ち上げ、長岡花火の名声を広めた長岡の花火師もいました。
長岡花火は長岡空襲の犠牲者への慰霊と復興に尽力した先人への感謝の思い、世界平和の願いをこめた「慰霊と復興の花火」ですが、長岡の民には長岡空襲の先にある長岡花火も知ってほしい歴史です。
『慰霊と復興の花火』の白菊は
慰霊と復興の象徴とされる『白菊』がはじめて打ち上げられたのは1991年にロシア(ソ連)のハバロフスク市・アムール湖畔開催されたアムール川大花火フェスティバルです。
花火師・嘉瀬誠次氏がシベリアに抑留中に亡くなった戦友たちの戦友への慰霊・鎮魂としてのために打ち上げた花火です。
長岡ではじめて、打ち上げられたのは2003年。
長岡花火のプログラムで打ち上げが始まったのは2006年で、フェニックス花火(2005年)よりも後なんです。
しかも打ち揚げられるようになった理由が衝撃的で
「長岡市民が慰霊の気持ちを忘れているから」
(出典:白菊-shiragiku- 伝説の花火師・嘉瀬誠次が捧げた鎮魂の花)
白菊は、長岡花火の慰霊の思いを忘れかけてる長岡市民への戒めを込めて打ち上げられたのが始まりなのです。
長岡花火の歴史年表『完全版』
長岡花火ドットコムでは、長岡花火の歴史的な公式資料を基にして、独自に調査した「長岡花火の歴史年表」を公開しています。
長岡花火公式の歴史年表では、長岡遊廓が繁栄させた時代などは歴史を切り取っていますが、長岡花火どっこコムでは、語られない知られざる歴史も記載しています。
慰霊と復興の先の歴史からの長岡花火の完全歴史年表です。
また、145年の歴史がある長岡花火の明治から令和の歴代煙火目録を収集してデータ化した歴代の長岡花火プログラムを公開してます。
