長生橋創設者・廣江椿在門の功績と信濃川架橋の記念碑|長生橋関係資料集

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長生橋関係資料集

長生橋創設者・廣江椿在門の功績と信濃川架橋の記念碑

長岡市を代表する長生橋の西詰には、この橋の創設者・廣江椿在門(ひろえちんざいもん)🧨の功績を讃える記念碑が建っています。

明治28年(1895)、孫の一事郎が近隣の有志とともに建立したもので、碑面には「信濃川架橋創業旌功碑しなのがわかきょうそうぎょうせいこうひ」と刻まれています。

椿在門は信濃川に初めて橋を架けた人物であり、その尽力は長岡の地域交通の発展に大きく寄与した偉業です。

ここでは碑文の原文と、長生橋関係資料集(吉野利夫)による現代語訳をご案内します。

信濃川架橋創業旌功碑(原文)

以下は碑文の原文を(なるべく)そのまま掲載しています

十一月徒杠成、十二月輿梁成、民未病渉、蓋辟道路、通橋梁、爲政之急務矣、况險阻壅塞、當衢路之衝者、一旦辟而通之、其利及所之豈止一端乎、廣江椿在門、越後三島郡大島村之人、信濃川爲越後之巨流、嘗以船渡之、廣江椿在門幹其事、併窮水利堤防之理、明治六年歷遊東京橫濱、既婦、信濃川憂渡船之害、欲換以橋梁之便、苦思萬端、募衆醵資、請官得許、乃與工人川崎甚藏謀、經營就役、工未及半、醵資既盡、乃自傾家產繼之、且介甚藏謀之三島郡片貝村人堀井彌十郞、彌十郞慨然捐資助之、於是三人恊心竭力、家產盪盡不顧焉、明治十年四月功竣矣、信濃川架橋爲之權輿、是豈以爲小惠乎、十六年八月病沒、今茲會十三回忌辰、孫一事郞及同村曉茂市岡助三、博募義捐、建碑橋側以謀不朽、請余記其事、余長岡人也、大島嘗爲長岡属邑、
余生髮未燥、既知椿在門名、誼不可以辭、乃記而銘、銘曰

湯々大川 一葦濟之 春漲秋寮 冐觸殆危 長橋跨水 坦々如砥
誰創其基 日廣江氏 往來如織 日夜不息 六尺貞琘 千秋遺德

明治二十八年十月
田中正誠撰 山田耕治郞書

長生橋に西詰にある信濃川架橋創業旌功碑(撮影:長岡花火ドットコム)

信濃川架橋創業旌功碑(長生橋西詰)

信濃川架橋創業旌功碑の碑文

引用:長生橋関係資料集(吉野利夫)

信濃川架橋創業旌功碑(現代語訳)

以下は『長生橋関係資料集』(吉野利夫)による現代語訳です。

11月、人が渡れる様になり、 12月車の通る橋となった。

今までに、役立つ物は無く民はうれいていた。道路や橋を通す事は、官の政の急務とする処であるが況や、四方に通ずる大きな道路は、まさに険しい要塞を開き通す事と同じでその役立つ事は、勝どきが一度けだけに止どまらない事と同じである。

廣江椿在門は越後三島郡大島村(現長岡市緑町 3 丁目)の人。

信濃川は越後の大河で今までは船で往来していた。椿在門は渡船の事と併せ水利や堤防の治めに困り、明治6年東京や横浜等をあらかた視察して帰り、信濃川渡船の弊害を橋梁によりその不便を解消しようと考え、種々苦心し大勢の人々から資金を募り政府の許可を得た、よって請け負い人川崎甚蔵と事業に着手した。

だが目的の半分も出来ないままに、資金を使い果たし自らの全財産を投け出し事業を続け尚、甚蔵を仲介として三島郡片員村(現小千谷市片員)の人堀井弥十郎にこの事を相談し、弥十郎も心奮い起こし資金援助を約束し、これから三人協力し財を事毎く注ぎ資産傾くも顧みず、事業を継続し漸く明治十年四月竣工した。

信濃川架橋の始まりとなる。
この喜びを以て小さな救いとなったが、同十六年八月病没す。今此処に十三回忌の其の日、嫡孫ー事郎及び同村、暁茂市・岡助三広く義援を募り、功績のいしぶみを橋の傍らに建て以て朽ちる事ないよう落ち無く思い巡らす、私は請われて、其の事を記す、私は長岡の者ですが大島は以前長岡藩の領地で有り、私は子供の頃から椿在門の事は知っていた程よい言葉ではなく、すなわち石に刻み記して日く。

水多く盛んなる大河春は水が満ち溢れそうとなり、秋は水が溢れ一葉の葦がこれらの大水から救ってきた。

触れてはならない危険を敢えて冒し、この長い橋を架けてしまった。それは広く、平らの事は砥石の様で誰が其の基を作ったのかと言えば、それは廣江氏である。往来は檄しく渡る人は昼も夜も途絶えることがない。

其の功績を六尺の石碑にして永遠に遺こす。

(文責 吉野利夫)
(引用:長生橋関係資料集 , 吉野利夫)

椿在門氏記念碑移転供養式記事

信濃川架橋創業旌功碑は、廣江椿在門の孫である一事郎が、近郷の有志の賛助を得て明治28年に建立されました。

廣江椿在門に所縁のある地である長生橋の西詰に建立されていましたが、昭和12年現鉄橋架設の際に枕川楼の一角に移されてから放置されていました。

その後、地元長岡市岡村町民一同 (元深才村岡村新田)の熱願と長岡市の援助で、昭和25年9月2日に再び長生橋西詰に移されて現在も長生橋を往来する人々を見守っています。(出典:新潟日報 昭和25年9月2日)

和やかに移転供養式
長岡ー三島架橋の恩人 故 椿在門氏の記念碑落成

長岡市と三島を結ぶ唯一の動脈大信濃川に初めて架橋した恩人、長岡市大島町(旧三島才村大島)廣江椿在門氏の記念碑は、昭和12年現鉄橋架設の際、長生橋西詰めのゆかりの地から大通りの枕川楼の一角に移され放置されていたが、今年当初から地元長岡市岡村町民一同(元深才村岡村新田)の熱願と長岡市の援助で二日再び思い出の西岸橋際に移され、午後三時地元民と長岡市長ら出席の下に和やかな落成供養の式を挙げ美しい先達の遺徳をしのんだ

当時の木橋はその昔庄屋を勤めた財産家椿在門氏が産業発展と文化向上のため一生をかけ、家財を惜しみなくつぎこんだもので、総工費11,552円79銭5 を費やし明治9年完成、長さ四百八十三間一尺九寸、俗にいう”八丁大橋”の一つで当時は“臥龍橋”と呼ばれ長岡名物の一つに数えられ、昭和12年近代様式の鉄橋長生橋に改修され、同氏の不朽の遺徳はいまなおさんとして輝き地方文化の交流に大きな役割を果たしている

(引用:和やかに移転供養式  新潟日報 昭和25年9月2日)

廣江椿在門の信濃川架橋

明治の初めに信濃川に初めて架設された長生橋。

廣江椿在門が自らの資産を投じてまで完遂した信濃川架橋は、単なる土木事業ではなく、信濃川を危険な渡船に頼るしかなかった時代に、地域の発展を願う廣江椿在門の信念と行動力が形になったものとも言えます。

長生橋西詰に建つこの石碑は単なる記念碑ではなく明治という激動の時代に、地域の未来を信じて行動した一人の民の証です。

廣江椿在門が残した功績は、川を越えるだけでなく、人の心をつなぐ「橋」となって今に息づいています。

彼の名を知る人は少ないかもしれませんが、その志は、長生橋を渡るすべての人の中に確かに流れ続けています。

このページを通して、長岡のフロンティア・廣江椿在門の歩みを感じ取ってもらえたら幸いです。

『長生橋関係資料集』のアーカイブ

長生橋の歴史・変遷について収集した唯一のドキュメントが長生橋関係資料集(平成8年8月)です。

長生橋関係資料集は「長生橋の中の人」である元長岡土木事務所の吉野利夫氏が、初代の長生橋から現在まで新聞・各文献より長生橋の情報を収集した知る人ぞ知る資料集です。

この『長生橋関係資料集』を吉野氏御本人から提供していただき長岡花火ドットコムで公開しています。

長生橋と同じように、このアーカイブも人と未来をつなぐ存在になりますように。

 

 

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