元長岡土木事務所の吉野利夫さんが1997(平成9)年に「全建にいがた」に寄稿した「長生橋のあゆみ ─ 架橋から121年が経過」をご案内します。
長生橋のあゆみ 一 架橋から121年が経過
はじめに
長岡と開いて、まず思い浮かぶ事は、夏の風物詩である大花火大会ではなかろうか。
大型花火の打ち上げ規模では日本一と言われ、中でも三尺玉や仕掛け花火のナイヤガラは圧巻である。
そのナイヤガラに無くてはならないのが、長生橋のグルバートラスの13連ではないだろうか。
下流の大手大橋の、それとは趣を異にする景観である。県道路課道路技師、大野代助氏の手になるこの橋は、
周囲の背景にマッチして今では長岡市の第一級の文化資産とわれ、ランドマークとなっている。
昭和9年に着手し12年に完成、以来6 才となり暦を迎える事も有り,平成7年当地区恒例の土木フェステルバルで、その歴史を紹介しようと計画した。
作業に入って驚いた事は、この橋は県下に名の知れた構造物でありながら、確としたカルテも無く、管理図も復現図、体重も概ねの値である事、等々が判明し安易にパネル化出来るものではなかった。
まさに、蛞蝓(なめくじ)長屋の大御所、噺家の故、古今亭志ん生師匠の話の中に、後悔を、先に立たせて後から観れば、杖を突いたり転んだりと言う、噺そのものになろうとは思わなかった。
長岡市発行の刊行物を探って診たが、土木史はさらりと触れる程度で、その上内容にも違いが有り大変な作業となった。
しかし有難い事に、進める内に先輩や古老の紹介で、情報や資料が入手出来、漸く纏まり事無きを得た。
その後も収集を続け、縁有って長岡商工会議所主催による、長生橋の60周年記念展示会を開催する事になり、平成9年は思い出の年となりました。
以下その内容を紹介します。
私財で信濃川に架橋とは?
慶長10年5月(1605)蔵王の渡しが草生津に移され、元禄14年(1701)草生津河渡が開かれたが、川幅550間(約180M)と言われ、水深、流れも予想以上の難所で、渡船の他なく大小十八艚もの渡し船があった。
夜は勿論の事、気象条件による船止め、難船事故は付きもので、その度に船頭が処罰された記録がある。
地域の交流、交易に信濃川が障害となっていた。
時代が進むにつれて、渡しでの弊害は多くなり、ついに大区長の三島億次郎や、大森佐太郎等は架の立案をしたが、当時としてはあまりにも破天荒な事であり又、長大橋の架設技術は一子相伝の技術で、棟梁・職人の技量が総べてを左右した時代であった為に、実現できなかった。
しかし、三島郡岡村古新田(現長岡市緑町3丁目)の庄屋、広江椿在門はその計画を一人培っていた。
長岡の将来を憂慮し、明治6年可能性を求めて東京や横浜等視察し、家では、実験を試みるなど苦心の結果、
資金の関係も有り小林政司と連名で架願を提出、漸く明治7年5月許可を得た。
和納村大工川崎甚蔵を棟梁に、人足手頭は地蔵堂村小松川松五郎に決め大工360人、人足1298人を見込み、
中州を抉んで東西二つの橋で、繋ぐ事として、同9年4月30日着手した。
しかし、予想以上の難工事で家産も傾き、資金も欠乏した。その事を知った、片貝村の堀井弥十郎が椿在門を助けて、本流部230間(約418.2M)幅3間2尺・中川180間・支流部48間の空前の大橋が、同年10月20日総工費11,552円79銭2厘で完成し、信濃川架橋の始まりとなった。
この10年後、新潟の万代橋が架けられた。翌10年4月開橋式を挙行し、明治11年9月、明治天皇の行幸を得て後は、水害との戦いであった。
同12年夏、14年5月・9月、15年10月、18年5月・7月、21年24年と、橋は流失し民間人が保持出来る施設ではなかった。
明治24年有料橋の免許期間も、満期となる事から県でも、同年9~10月に4回の調査を行っている。
同24年12月19日県に、移管して無料橋となったが、翌年7月橫田切れの大水、同30年7月・8月・10月出水により大破、この年の修復で始めて、一本の橋となり橋長も480間1尺5寸となって、日本一と言われたが「其の実態は継ぎ足しを為し三なり、錦帯橋の如き観たるなり」と深才村史は形容している、この後も風や水で破損と修復の繰り返しであった。
県・木橋ニ代目架橋に着手す
明治44年7、8月、大正2年8月長岡でも破提し大きな被害を受けた、翌3年8月14日の大洪水で橋の大半を流失し、どうしても新しい橋を架設しなければならなくなった。
そこで長さ480間(827.7M)幅18尺2寸(5.5m)総工費12万円の大橋梁建設を決議し、入札の結果刈羽の請負業者
植木亀之助に決定同3年12月21日工事に着手した。
信濃川大氾濫(出水位・2丈2尺4寸、床上浸水5,889戸・床下浸水575戸、水深5尺の地区も有り)の災復旧に
多忙を窮め、工事が終えたばかりの植木組では、阪田梁吉を棟梁に据えた。
梁吉は安政6年の生まれで、早くから大工職を身に付けて後、東京へ出て更に優秀な技術を習得する機会を得た。
後に宮内省匠寮を務める、伊藤定一氏に師事して、設計技術を伝授され、明治以前までは、一子相伝の秘法と
言われた橋梁架設に、優れた力を発揮し、植木組の、橋梁架設技術向上に、大きな役割を果たした人である。
受注後、まず最初の課題は、用材の確保であった。
長岡の橋は、長岡の業者からと交渉したが、折り合う価格ではなかった。しかも、県内では有名な加茂明神の、大杉しかあるまいと言われていた。
そこで梁吉は、東京の博覧会を思い出し、但馬の(兵庫県北部)妙見山の杉材に決め、大宝商会に紹介した。
「着単価、一才7銭で、用材はいくらでも有る」との回答があった。長岡の単価より10銭も安く、早速依頼した。到着した材料を見て驚いた、本のコロで十二丁もの桁が取れる巨材であり、梁吉は存分に腕を振るった。
この時に初めて、杭の打ち込みに錮力を使用し、15尺の杭が信濃川の流れの中に、どんどん打ち込まれていく光景は、当時としては壮観で、人々の目を見張らせるものであった。
こうして、長さが約6間縮まって、474間3分(858M)杉材総計53万才(一才は長さ約二間・一寸角)を用い、予定より早く完成した。
梁吉の真価は、あますところなく発揮され、高欄は一線を引いた様に正しく、専門家さえ感嘆したと同時に、
県土木課の三谷技師は監督員冥利に尽きると、その喜びをしみじみと語っている。
新橋の完成を市民は、殊の外喜び、県知事以下、関係者を迎えて、長生座にて落成式が挙行され、祝賀の仁和賀が三日間も、市街に繰り出し、長岡、一丸となっての記念行事となった。
しかし、架替えに際し、その位置を変えて、新橋は長岡駅から真っ直ぐに、渡町を突き抜けて対岸に、架けようと主張する人達もあって、位置選定には、以外の波紋を生じた。
現大手大橋の位置であり、今から100余年も以前の話しである。
「仰げば鋼鉄の長城高く空天に横たわり石脚厳として大信濃川の激流を分かち連続十三連のゲルバー式鋼橋の素晴らしき雄姿」まさに地方の偉観である
鉄橋架け替え
木橋完成後、大正6年・昭和5年・6年と、出水の記録はあるが、大正11年8月、大河津分水路が完成した為か、橋が大破した記録はない、がしかし架橋後15年を経過、風雨に晒され、激しい流れの中に有って朽廃し、
維持管理費も年3~4千円を要し、又、鋼橋完成を報ずる新聞に、木橋を架けた梁吉の話が、掲載されていて「立派に出来ただったが、何しろ4百貢(1.5t)以上の物は通さない、と言う設計で架けた橋を、3tも積んだトラックが、3台も5台も連なって、通るんだからたまったものじゃない。
良くこれまで持ち堪えたものだと、つくづくと思う」と述べているように、交通事情等々の、苛酷な条件には勝てなかった。
辛うじて渡っている状態で、関係住民や県土木課でも、なやみの種となっていた。この為、地元長岡市長を中心に、恒久的な橋とする運動が、展開されていた。
一部流失もあって、対、昭和7年11月県議会において、3ケ年継続事業による、長生橋架替えが可決された。
総工費68万8千円、うち地元負担金長岡市10万円、その他関係者で2万円を分担する事となった。
県道路課・大野代助道路技師等により、設計その他の、準備に取り掛かったが、本省の認可の遅れ等で、翌8年12月議会において、9年度の予算23万円を削除し、8年度分の繰越しをすれば、支障は無いとしたが、川上土木部長は、毎年4千円以上の修繕費を要し、削除は廃馬に、重荷を乗せ、タ昏れの広野を、歩かせているようなもので、是非認めて貰いたいと、復活の要望をしたが、10万円の復活に終わった。
事業は4年継続となり、この1年の遅れが、後に大きな問題を、引き起こす事になろうとは、誰にも予測出来なかった。
構造概要
下部構造
・橋脚 12基
・鉄筋コンクリート 井筒
・基礎深 12米
・橋台 2基
・鉄筋コンクリート井筒
・基礎深 10米
上部構造
・径間
・67米5 2連
・67米 11連
工事概要
橋梁型式 下路式ゲルバー鋼構橋
延長 850米
有効幅員 7米20
取付道路 467米70
下部工発注
昭和9年1月、県庁で指名競争入札が行われた。
その結果、刈羽の請負師・植木亀之助氏が落札、請負金額71,68円にて第一回で決定した。
現場監督は長岡土木派遣所の豊岡肇氏であった。
植木は組の重鎮・阪田利七を据えた、利七は明治2年11月生まれで植木組の創業間もなく、亀之助社長に仕え、常に組の重要な役職にあり、壮年時代からの、筒袖、印半纏、脚絆、地下足と言う、一分の隙も無い利七の姿は、晩年も変わる事なく、この人の仕事一筋に徹した、真面目な性格を良く現していた。
各地の難工事には、率先して陣頭に立ち、その優れた手腕と、統率の才を発揮し、県の監督員も、一目を置いていた人であった。
この年は大雪で、1月28日着手したが、積雪は、2M50に近かった。
下請け等関係各社の協力により、工事は順調に進捗し、融雪出水前の3月末日までに、左岸より8径間のコンクリート井筒の沈下を完了した。
上部工他残工事契約
昭和9年6月26日、県は上部工他残工事の随意契約をするべく、横河・桜田等々の桁製作会社8社を指定し
植木組へ、見積書の依頼を通知、鋼材t数は2530tである。
植木組では早速鉄鋼相場を調査し、同月30日第五回目の54万4千円で漸く決定した。
7月4日工事契約、社長以下職員が東京・関西の県指定8社を訪問し月末までに見積書の提出を依頼ししかし、
何れの会社からも見積書は来なかった。
この時、イタリーとエチオビアの戦乱が勃発し、契約時の単価に比べ、5割り近く暴騰していた。
その為、鋼材相場の実情と、見通しを説明し、「工事の請負いを辞退するよう」勧めるもの、見積を辞退するもの4社等々、予想だにしない状況となっていた。
努力の結果、ようやく2社から入手した、だが両社ともに県単価より5割近くも高く、その差額は222,220円と多額であり、8月22日ついに、ほどこすべき策の無い植木組は、物価暴騰による、差額の増額願書を、県に提出した。
嘆願書に、各会社との交渉経過や、実情が切々と記されていた。県から植木組へ、同月31日に出頭する様に連絡があった。
社長は、幹部会の意見を秘めて、出県し福田道路課長・川上土木部長と面談の結果「三連だけでも出来ぬか」との話となった。指定8社以外の、契約や見積りの入手は、未だ許可となっていないが、完工すべく他社へも手配中である事、いま暫く、猶予が欲しい旨伝え面談は終わった。
増額の回答が得られぬまま、9月2日深夜の緊急役員会の結論は、3連までとし、残り10連は、辞退やむなしが大勢であった。
各社との交渉結果も、厳しい情報だけで、苦境に立たされていた。
しかし、組の為、あくまで遂行したいと、言う者もある事を知っている豊太社長は、「金を棄てて人を取ろう」と一人、意を決し英断を下した。
9月5日県庁に赴き、経緯と意志を伝え9月末、東京桜田機機製作所の協力を得て、3連分の契約を締結した。
随意契約の通知があってから3ヶ月が経過し、この間に、地蔵堂今町線の大河津地内、信濃川に架かる本川橋架替工事は、当初の契約10万円が倍額に変更契約をして、やっと完成の目度が付いた事、又、蔵王橋染替工事は、指名した業者らが請負を辞退した為、直営工事となり、鋼材の単価もt当たり240円と実務との差3円30銭での契約となっていた。
上部工3連架設に着手
3連分の架設契約工期は、翌10年3月31日に決定した。
降雪期を含んでの、厳しい期間で、早速、材料等の手配を済まして、10月20日県に、材料及び、原寸検査の願いを提出し、実施体制に入ったが、桜田機械の工場拡張工事の影響もあって、予定より遅れて鋼材が、西長岡駅に到着した。
だが、雪国の悲しさ悪天候等によりエ事中止の繰り返しで、遅々として工事は進捗せず、難航を窮め0年明け1月、県知事千葉氏に変わって岐阜県から宮脇氏が赴任した。
降雪期も過ぎ春となって、冬期間の悪天候等諸条件による、工事の休止が度重なった事から、3月日完了期限延期願いの提出により、5月30日となった。
4月、長生橋の契約当初からの事情を尤も良く知り、新潟に着任以来12年2ヶ月在職の土木部長、川上国三郎氏は内務技師に転出し後任に富山県から、荒木栄ニ氏が着任した。
その後、完了期限の延期願いが2度提出され7月31日となった。
この間請負費増額嘆願書に対する回答は無く、6月再度増額嘆願書の提出があった。
橋体3連の架設工事は、7月17日漸く終わり30日検査願いが出されて662tが完成した。
残り10連・人事を尽くして天命を待つ
いよいよ残り10連の大工事となったが、鋼材の相場は依然として高値が続き、情勢は変わらなかった。
6月再度提出された増額嘆願により、荒木新部長は現地を視察して「何故に安い単価で、引き請けたのか不思議である。請けた以上、完成させる事が、請負者の仁義であり、悪例を残す事となる。」との発言があった。
そして、残工事について県と組の間で、最後の折衝が開始された。
部長に契約当初からの事情を説明し植木組としては、いかなる事があろうとも、やる事で努力中であると、決意を表明した。県は大阪鉄工所、他2社から見積りを聴取して、8月1日組に提示した。植木組も、桜田・横河その他の会社に依頼し県に報告した。
地元長岡市長も、この事態を察知し、その仲介斡旋を何度か試みるが、組には呑めなかった。
9月11日県庁で組と、部長・監理課長から担当者まで含め関係者で、丸1日協議した。
その結果、組の意志は固く完成に向け努力中である。厳しい状況下であり、県より特段の配慮を願いたい。
それに対し県は、「前任部課長の話は知らないが、誠意と実績は認め、同情もする、しかし工期延期も増額も出来ない。規則により処置する以外にない」と話合いは合意に至らなかった。
契約不履行による契約解除は、契約金1割没収と指名停止であり、結論を16日に持ち越した。
残り10連の内容は、鋼材1958t実施額462,890円40銭、請負金差額134,122円40銭で、その額は既に完成した3連分に等しいが、営業継続の為には完成あるのみであり、16日植木社長から荒木部長に完成を約す報告があった。
組では17日早速、名古屋・大阪・東京方面に、社長自ら工事の打合せに出かけた。
契約解除とは
しかし、県では方針を既に決定し、土木部長名で次ぎの打電をした。
「未成部分の遂行の見込みありや、返待つ」、社長不在の組では「主人不在の為、帰るまで待って欲しい」旨の
回答があったが再度19日、21日には最後通告の打電となった。
社長は急遽予定を変更して、23日部長・道路課長に工事続行の手配を済ませた事の報告があった。県は検討の結果、植木組との契約は解除に決定、25日大阪鉄工所と契約した。
その情報は直ぐに植木組に入り、社長は翌日説明を求めたが、県は植木組でやらない方が得策である「解約は我々の認定で、処分は規定によるものである」と説明、現在と違い片務契約の成せることで、正に請け負けの時代であった。
県からの工事契約解除通知が、10月1日植木組に届き翌日、社長と部長との会見となった。
社長は、今までの経過、工期の残はまだ5ヶ月ある事、手配は済んだ事、指名停止は会社の生死に繋がる事、しかも、3連は増額なしで県の指示通り施工した事等々、片務契約とは言え不当な通知であり、取り消しを迫った。荒木部長は、苦境に立つ社長の立場は解っていた。
「察するが、打電したが君の方から通知が無かったので解除した、指名も君の名前でなければ入れる事も出来るが・・」話し合いは並行状態だった。
折しも、長岡市長が来訪し状況を察知し、妥協案を提示し斡旋に立ったが、不調に終わった。
組には承知出来ない理由があった。
県指定8社でありながら、当初の見積もり依頼を無視し無回答の会社だった。
条件が有利と見て当社に何の挨拶も蕪く、県と契約をするとは営業道徳を解さぬものである。
窮状を察した桜田機械製作所とは既に話し合いは済んでいた。
大阪鉄工とは、残工事費に9万円を上乗せした契約であった。
この契約が県議会で追求を受ける事となるのである。
土木部長の説明
11月の県会で、「損失覚悟で工事を完成すると言う植木組との契約を解除して、なぜ9万円を増額し他のものと契約しなければならないのか、植木組は辞退したのか」の追求がなされた。
これに対し、荒木部長は、「未完のまま放置出来ない事、非常な損失を招いている事、単価の仲介をしたが承知しない事、放棄する意志がい事、鋼材相場の変動から何時までも待てない為」と説明した。
しかし、議会は納得せず、部長は県の苦しい立場を次ぎの様に説明した。
「工事の多少の遅延は認めても、何時までも待つ訳には行かず、組も責任上自分から放棄すると言わないが、県は完成の見込みが無いと判断した場合は解除する権限を持っている。
今回の場合は、遅延工事規定による処分をするべきでない」とした。(建設業協会設立の原点となる)その結果規定の処分は無く、旧橋の撤去や取付道路の工事を契約した。
こうして幾多の杆余曲折ほあったが、漸く橋は完成し、架替工事のドラマは総べて終演したのである。
昭和12年10月12日午前10時
県知事関屋延之助、土木部長荒木栄二、長岡市長木村清三郎など関係者が臨席して橋の東詰めで祝典が、盛大に挙行され直会は橋の中央で行われた。
当時の地域新聞、北越新報や越佐新報それぞれ、2面にわたって、その完成を祝い、建設関係者の功を讃え、新橋への期待と初代の橋の想いでを報じている。
特に長岡土木派遣所、豊岡肇監督員の所感や植木組社長の談話は、この事業が如何に大変であったかを物語っているのではないか…
豊岡肇氏の所感
「昭和9年1月、大積雪を冒して基礎工事着手以来4年、この間洪水時における基礎井筒の傾斜、径間割丁杭の流失、激流中における井筒沈下用の築島、或いは材料の暴騰等、幾多の困難と危険に遭遇した事は、今も思い新たなるものがある。
この間、上司の懇切な指導と植木組の時期に即した措置と犠牲的英断には、感謝に堪えぬものがある」
植木組社長の談話
「長生橋に対し、過去の世評はともあれ、自分として為すべき事を為すの信条を果たしただけである。県の幸福、即ち長岡の幸福以外、何も考えていない。人事を尽くして天命を待つ、そこに何のわだかまりもなく不快の念もない。ただ事業の遅成した喜びが有るのみである。」
※昭和7年11月の県議会で議決し3ケ年計画で事業に着手したが、世界経済の動向や現状把握の慧眼(けいがん)なく、予算の1年先送りによって思わぬ辞退となり、その結果完成まで、5年の歳月を費やす事になった。
この事は如何に、政治や行政・財政に広く情報を収拾し、的確な判断が求められているのかを、このは後世に伝えているのではないだろうか。
※その後は、交通量との戦いで床版の打替えや増桁・沓床等の補修を重ね現代に至っている以下、別紙年表のとおり
皆さんも、土木史を探ってみませんか。なお、資料や情報の提供を賜わりました皆様に紙面を借り衷心より厚く御礼申し上げます。
(文責:吉野 利夫)
『長生橋関係資料集』のアーカイブ
長生橋の歴史・変遷について収集した唯一のドキュメントが『長生橋関係資料集』(平成8年8月)です。
長生橋関係資料集は「長生橋の中の人」である元長岡土木事務所の吉野利夫氏が、初代の長生橋から現在まで新聞・各文献より長生橋の情報を収集した知る人ぞ知る資料集です。
この『長生橋関係資料集』を吉野氏御本人から提供していただき長岡花火ドットコムで公開しています。
長生橋と同じように、このアーカイブも人と未来をつなぐ存在になりますように。
取説
『長生橋関係資料集 デジタルアーカイブ』